星降りぬ

書かねば。

「会話劇」その先へ ~省略するゆゆ式~

 きらら2月号のゆゆ式面白かったです三上先生すみませんでしたって記事。発売から一か月がたち、3月号も出るころなので書こうと思う。

(ということで、単行本派の人はネタバレ注意です。最新10巻にも載ってません。ブラウザ閉じてください。)

 

 前回の記事で、唯ちゃんの大声ツッコミなどゆゆ式トークの展開にパターン化の気配がみられる、という話をした。これはお互いを笑わせようとする「会話劇」の技巧的な発達であってネタの安定感が増す反面、ふつうの「会話」としては自然ではなく、さらには展開のマンネリ化にもつながる危なっかしい兆候である、という趣旨である。

 

 もっとも、だからゆゆ式はつまらなくなった、という話がしたかったわけではない。たしかに先の問題はマンネリ化につながりかねないが、それでも「会話劇」はおもしろいし、そのほかにもゆゆ式にはまだいくらでも広げる余地があるから、直ちにマンネリ化することもない。

 実際ゆゆ式は情報処理部の外へも広がりを見せている。相川組とどんなコミュニケーションをしていくのか、とか、おかーさん先生やモブから見た情報処理部の3人はどうなのか、とか。または、積極的迷子回やIMAX映画回、ハンバーグ回などのプチイベントでは素直な反応やふだんは聞けない言葉が出てくることもある。いよいよマンネリ化が避けられないようであれば、三年生になってしまえばよい。まだまだゆゆ式には楽しみがある。

 ただ、情報処理部の描き方としては、もう発展の余地はないと思っていた。3人はいつでも互いを満足させ、楽しく笑い合える会話ができるようになったのだから、これで完成。料理番組の展開は固定的であって、なにを調理するか、どう捌くか、だけが関心になるのと同様、ゆずこが持ってきたネタを調理し、唯ちゃんがツッコミで味付けしつつ、縁がおいしそうに食べる。これ以上は望むところはないと思っていた。コミュニケーションの円熟。かといって「会話劇」は彼女らにとっての日常になってしまったのだからなくすという選択肢もない。もう情報処理部を描くには外に広げるほかない。そう感じていた。

 だから(不躾にも)あんな否定的なニュアンスで記事を書いてみたのである。

 

 ところがどっこい、2月号がめちゃんこ面白かった。そして度肝をぬかれた。

 まさかの「会話劇」全スキップ。しなかったのではなく、きっちり「会話劇」を完成させたうえでまるまる省略。こちょばす方に持っていくゆずこの機知・努力・執念が全カット。我々読者には、壮絶な「会話劇」の残り香だけが示される。だけど面白い。もうびっくり。

 きらら日常系マンガは、キャラクターの会話が中心となるため、叙述のスピード(展開のはやさ。物語時間の流れ)は遅めである。ゆゆ式は縦の4コマにとらわれず会話が進むのでその傾向は顕著だ。連続的に叙述が進むなかで唐突に現れる省略は、読者を強くゆさぶる。

 さっきまでは普通に話していたのに、つぎのコマではいきなり唯ちゃんがベッドの上に退避、ゆずこが息を切らしている。「ね…結局…、どんあ話をしても…、こちょばす方に…、もってったでしょ…」のセリフで、時の流れにギャップがあることに気づかされる。「サバンナからのもっていき方、よくなかった?」っていったいどんな会話をしたんだよ。しかしその仔細が語られることはない。読者は「会話劇」前後のギャップのみを味わうことになる。

 省略法自体はゆゆ式でもたびたび用いられている。唯ちゃんがゆずこを殴るとき、殴るに至ったゆずこの失言と唯ちゃんの鉄拳制裁は描かず、これから殴られるであろうという予感と、案の定殴られたというゆずこの反応だけを描く、アレだ。

 しかし「会話劇」はここ5年のゆゆ式において目玉といっても過言ではなかろう。それを全部端折った。ふつうはありえない作りである。これがほかのマンガであったならば「ああ、作者はネタを思いつかなかったんだな」と醒めてしまいそうだが、2月号のゆゆ式はそれを感じさせない。きっとコマとコマの間にはすさまじいやり取りがあったに違いない、絶対面白かったはずだ、という確信がある。ゆゆ式だからこそ許される芸当である。正確に言えば、これまでに「会話劇」を磨いてきた情報処理部への信頼があるからこそ。巧みな言葉遊びで互いを笑わせ合っている毎日がそこにあるという安心感があるからこそ。そんな3人を10年間描いてきたゆゆ式だからこそ、である。

 

 「会話劇」に執着すると展開がマンネリになる虞れがあるほか、言葉遊びに終始して3人の人間関係そのものの描写がなおざりになるという問題がある。しかしきらら2月号のゆゆ式では「会話劇」をカットしたがゆえに、唯ちゃんの素直になれない照れやゆずこの唯ちゃんいじりへの執念、その後の他愛のないちょっかいと笑いがより鮮明になっている。

 さすがに省略法は飛び道具なので頻繁には使えないだろうが、ゆゆ式の可能性を感じるには十分である。

 11年目の情報処理部にも目が離せないな、と反省のしきりです。

 

 さて、3月号が楽しみ。日本海側は金曜から雪に閉ざされていて外に出れなかったんですけど、明日買ってきますね。

 

 

追記

 ゆゆ式「鹿威し」説

もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないといえる。ただ断続する音の響きを聴いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。

 

 なつかしいですね。

『ツッコまねば』という強迫観念 ~ 「女子高生の日常」を放棄した情報処理部 ~

 前回の記事では、ゆゆ式情報処理部の3人が意識的に「軽快で楽しい会話劇」を作り出している、それによって情報処理部の3人は「楽しくない」状況を積極的に回避している、ということを書いた。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 この記事では、「楽しく」あろうとする3人の姿勢をあたかも固定的なゆゆ式の性質のように書いたが、もう少し掘り下げてまとめたい。

 

 彼女らが避けようとしている状況については、紅茶氏の次の記事がわかりやすい。

monochromeclips.hatenablog.com

 

 紅茶氏は、情報処理部3人にとっての一番のディスコミュニケーションをこの「天使が通り過ぎる」こと、または「不慮の事故的な沈黙」と表現した。

 

いや、つまり。

「天使が通り過ぎるのを防ぎたい」んじゃないか、という話でして。

展開していくなかで再三言及されていた「コミュニケーション不全」というのは。

コミュニケーション不全を起こしたくない、という見えない力場の下にある以上。

逆説的に存在しないのではないか、と考えるのです。

正確には、連載初期を中心に。ふとしたきっかけで。

コミュニケーション不全に近い状況が生じているのは確かでしょう。

しかし、それを嫌うからこそ冗談としてそれを消化でき。

巻を重ねるにつれそれが洗練されていく、と解釈出来なくもないわけです。

(中略)

――で、「天使の門番」の話なのですが。

要は本当の意味で不慮の事故的な沈黙が。

彼女たちにとって一番のディスコミュニケーションなのじゃないかな、と。

紅茶 「『ゆゆ式と常識』の方式、という名を借りた戯言」『灰色の日々』

https://monochromeclips.hatenablog.com/entry/2018/12/26/235658 (2019年1月5日取得)

 

 「天使が通る」というのはフランス語の諺であり、ふと会話が途切れて場に沈黙が流れることを表わす*1。ふと会話が途切れて場に沈黙が流れるというのは、日常において決して特別な状況ではない。拾いにくいトークを投げてしまった、互いの感覚にずれがあり瞬時に答えられなかった、怒ったり悲しんだりと感情的になっている、もしくは単に話の種が尽きた。そして初期のゆゆ式のにおいても「天使が通る」タイプのディスコミュニケーションは大なり小なり見ることができた。

 ただ、情報処理部の3人はこれを嫌ったようである。5巻以降の情報処理部は自然体で散発的な言動をとるのをやめ、互いを楽しませるために「会話劇」とでも呼ぶべき技巧的な会話を見せるようになる。親友同士で日常をより高度に楽しむための、楽しいという気持ちへの不安定要素を排斥するための術である。

 しかし立ち返れば、技巧的な会話というのは「日常的」ではない。等身大の女子高生を描いていると評されたゆゆ式は、強みであるトークに歪みを抱えることとなった。

 

 顕著なのが、唯ちゃんのツッコミの変質である。

 彼女は作品に一貫してツッコミの役目を果たすが、そもそも彼女は「シャイ」である。1~4巻ではあきれまじりに、もしくは真顔でバッサリとゆずこのボケ(奇行?)捌くパターンが多く、意外かもしれないが大声でツッコむという描写はまずみられない。大声を出すとしたら下*2のように恥ずかしがって声が大きくなってしまう場合である。

 

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 もしくはこんなかんじ*3で、激しいボケ・ツッコみの応酬についテンパってしまったとき。

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 こういった状況ならば、まあ大きな声出しちゃうこともあるよなと理解に難くない。しかし、これが5巻ごろから様変わりする。次の画像はゆゆ式7巻よりp.33。

 

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 ご覧の通りゆずこのボケに対して唯ちゃんがものすごい勢いでツッコんでいる。周りに同級生がいるであろう教室で、恥ずかしげもなく大声を出している。この回最初のネタであるため会話の流れはわからないが、かといってド直球の下ネタというわけでもないし、ボケの連撃に翻弄されてパニクっているわけでもなく、つい大声を出してしまった、と考えられるような文脈が見られない。

 女子高生の「日常的な」会話に、このようなツッコミの必要性が感じられない。しかし5巻以降のゆゆ式では唯ちゃんの叫ぶタイプのツッコミが当たり前のように繰り返される。

 

 なぜ唯ちゃんがこのように振舞っているのかといえば、大声で勢いよく突っ込めばネタがひとつ成立するからである。

 ゆずこが無茶ぶりなボケをするのはいつものことだが、縁がほとんどツッコまない以上、これを拾うのは唯ちゃんの役割となる。もちろん拾わずに流したりバッサリ斬って捨ててもよいのだけれど、それをすると会話のテンポが悪くなる。ネタを生かすも殺すも唯ちゃんの一声にかかっているのだ。

 先ほどのページをもう一度見てみよう。わずか2コマでネタが成立している。すごい。ゆずこの突拍子なもしも話に間髪入れずツッコんでいる。しかもきちんとドレッシングをかけられるもの繫がりで返していて「ドレッシングかけるってなんだよ」などよりもずっと巧妙だ。そしてなにより早さと勢い。さすがに食い気味の「サラダかっ!」はゆずこの予想以上のツッコミだったのか耐え切れずに笑いだしている。

 より素早く、より巧妙に、より劇的に。会話劇をより楽しく盛り上げようとすればするほど、ツッコミは芝居がかったものとなる。自然体で振舞うことをやめた唯ちゃんの叫び声型ツッコミには「ツッコまねば」という強迫的な意思が見え隠れする。

 ゆゆ式を追い続けてきた我々は、もしかしたら違和感を持たないだろう。いつもの展開であるし、人によっては無茶ぶりにもきちんとツッコんでくれる唯ちゃんに対するゆずこの信頼の厚さや即座に会話劇をこしらえることができる情報処理部のコミュニケーションの円熟を感じ取るかもしれない。

 だが、女子高生の「日常的な」会話としては無理があるのだ。

 

 なお「会話劇」と作り出すことによる歪みは、ゆずこのボケ方にも表れている。8巻あたりをめくってみると面白いのだが、日常の会話の中から広げていくのではなく、「たとえば○○だったらどうする?」などの仮定形のネタが目につく。

 

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 順にゆゆ式8巻より、p.33, 49.。あえて扉絵をカットせずに引用したのでわかりやすいと思うが、各話の1コマ目から唐突に架空の想定を投げかけている。このほか「博士号を取りたい」とか「ワッフル落ちてこないかな」も8巻あたりである。

 偶発的な現実からネタを探して地道に膨らませるよりも、いっそ最初から「もしも」とありえない切り出しで始めたほうが会話劇を作り出しやすいのだろうか。

 

 以上のような状況を好意的に捉えれば、三人の会話に磨きがかかってハイコンテクストな次元に到達している、といえるだろう。一方、悪意をもって捉えれば「楽しくしなければ」、特に唯ちゃんに関しては「シャイ」という自身のキャラクターを捻じ曲げるほどの強迫的コミュニケーションが行われている、ともいえる。

 

 ゆずこがボケて、唯ちゃんがツッコみ、縁が笑う。この日常の女子高生離れした状況を3人は自身らの「日常」として選び取ったのである。

 

 

おまけ

 

 今回書いたことはずっと前から思っていたことだけれど、この度まとめようと思い立ったのは紅茶氏の記事に触発されてのことである。ぶん投げたものを勝手に拾って言いたい放題に騒ぎ、都合よく記事の引用までしちゃいました。感謝とお詫びを。

 また、「不敬罪」のところではこんな失礼な書き方をしているが、ゆゆ式を悪く言うつもりはない。むしろやっぱ三上先生すごいなと見直している。

 というのも、唯ちゃんのツッコミが激しくなったところで「ゆゆ式」という作品が崩壊することはないのだ。あくまで彼女らは互いを笑わせて楽しく過ごしたいだけ、2年生に進級して信頼も深まったゆえに会話劇が巧妙になっただけ、でいいのだ。あの3人の会話は、常識的でも日常的でも現実的でもないが、作品としてのビリーバビリティはいまだ損なわれていない。

 さらに蛇足だが、ゆゆ式オタクの多くは別にこのような情報処理部のコミュニケーションの変質に違和感を持っていない。ゆゆ式オタクは情報処理部の"common sense" に順応しているし、順応させられているし、三上小又は読者を順応させるだけの世界観(部室感?)を描いている。やっぱすごいと思う。

 

ゆゆ式における「敵」とはなにか ~ 情報処理部の弛まぬ努力について ~

 今年も“ゆゆ式 Advent Calendar 2018” が面白い。

adventar.org

 ゆゆ式10周年展と時期を同じくして始まったクリスマスへのカウントダウン。カレンダーが全マス埋まっているだけでも多くの人に愛されているという事実と活気が感じられて嬉しくなりますね。そして毎日が楽しい。一日ひとつずつゆゆ式のファンアートが増えたりゆゆ式の研究が深まったりする。嬉しい。

 毎年組んでくださってるえすじさん本当にありがとうございます。

 

 さて、そのカレンダーのなかに評論系が2~3みられた。読みながら「ゆゆ式語りたい欲」がむらむらと昂ってしまったので、勝手にこれら記事に乗っかりながらて吐き出したい。

 

 まず読んだのは、「ゆゆ式 Advent Calendar」より10日目、駅前ブラブラ氏の「なぜゆゆ式は神話なのか」である。

blog.livedoor.jp

 

 ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』については未読なのでよくわからないが、ゆゆ式にナラトロジカルな観点を持ち込んで分析しているところが興味深い。

 

 唐突だが、ゆゆ式のテーマとは何だろうか?

 多くの人は「日常は尊い」とか「女の子はただ楽しみたいだけ」とか「シビアでリアルな人間関係」とか「イベントなくとも、楽しい毎日。」などと答えるだろう。 本記事では「イベントなくとも、楽しい毎日。」がテーマだと仮定して、一般的な物語論を当てはめてみよう。

 まず、テーマからゆずこたちの欲望を抜き出す。 この場合の欲望は「楽しい日常」で問題ないだろう。

 物語の王道に従えば「敵」が現れるはずだ。そして「敵」は欲望が満たされるのを邪魔とする。この法則は日常作品であっても例外ではない。

 

駅前ブラブラ「なぜゆゆ式は神話なのか」『ゆるブログと行こう♪』

http://blog.livedoor.jp/yuyustudy/archives/14127338.html (2018年12月23日取得)

 

 

 駅前スマブラブラ氏は考察にあたり、2つの仮定を置いている。

ゆゆ式のテーマは「イベントがなくても、楽しい毎日。」である。

② 物語の王道に従えば、欲望の充足を阻害する「敵」が出現する。

 

 そのうえで、ゆゆ式には「楽しい日常」を脅かす「敵」は認められない、戦争やゾンビ、廃部の危機や人物同士のケンカがないことがゆゆ式の特異性だ、と述べている。

 この考察自体は齟齬を孕むものではないものの、看過しがたい疑念が残る。それは「敵」概念をごく限定的に適用しているのではないか、という疑問である。

 

 『神話の力』における議論がよくわからないので多少ずれるかもしれないが、童話から今日のサブカルに至るまで、「敵」を据えながら物語を進めていくというクリシェの存在は理論的にも直感的にも理解し得るものである。 

 駅前スマブラブラ氏の仮定によれば、「敵」は欲望の充足を阻害する存在である。今回の場合、「イベントがなくても、楽しい毎日。」が過ごせなくなる要因が「敵」とみなされるだろう。

 ここにおいて、駅前スマブラブラ氏は「楽しい日常」の阻害要因を戦争や外敵、ケンカなど、外的ないし特殊な事象に求めている。平和な日常を壊すのが「敵」というといかにもなイメージである。

 しかし、「楽しい日常」の阻害要因はこれだけではない。ゆゆ式は情報処理部の三人を中心とした軽妙な会話劇や登場人物コミュニティ内の交流を中心に「楽しい日常」を描いている。これらが成立しない状況は外的要因以外にもいくらでも考えられる。ネタが滑りつづける、会話が薄くなる、相手に嫌悪感を持つ、などなど。これらはゆゆ式的ではない。十二分にゆゆ式の「敵」と呼ぶことができるのではないのだろうか。

 

 簡潔にいうと、ゆゆ式の「敵」は「楽しくないこと」である。唯・縁・ゆずこのだれかがつまらなそうにしていたり、怒っていたり、悲しんでいることには耐えられない。常に明るく楽しい日常でありたい。このように彼女らの願いと「敵」を仮定すると、面白い視座を得ることができる。

 

 これもまた「ゆゆ式 Advent Calendar 2018」より16日目、紅茶氏の考察「ゆゆ式と常識」である。紅茶氏はあんな規格外なマンガをつかまえて「ゆゆ式は常識的である」という主張を打ち出している。

monochromeclips.hatenablog.com

 

 さて、まず最初に先に挙げた二作品の中からあるシーンを抽出します。一つは、あずまんがの別荘回でともちゃんこと滝野智が鍵を茂みに投げ捨てるシーン。もう一つは、きんモザのアリス誕生日回でシノこと大宮忍がプレゼントとして庭の石をあげるシーン。もう皆さんお気づきのことかとは思われますが、要するにゆゆ式にはこういった「友達であっても理解に苦しむ、最悪の場合喧嘩になる言動がギャグとして消費されていない」という点において常識的だ、ととるわけです。

(中略)

 これは三人の会話がそれそのものをネタとして楽しんでいる、筋書きによらない会話劇が成立しているという性質によるところが大きいと思われます。つまり、コミュニティ内においてcommon senseとしての常識が確立されているのです。

紅茶「ゆゆ式 Advent Calendar 2018 16日目:ゆゆ式と常識 」『灰色の日々』

https://monochromeclips.hatenablog.com/entry/2018/12/16/235052 (2018年12月23日取得)

  

 既にあるとおり、紅茶氏のいう「常識」とはマンガとしての修辞や筋書きの問題ではない。登場人物コミュニティ内で起こる会話の性質について指摘するものである。

 不勉強にてあずまんが大王はよくわからないが、確かに『きんいろモザイク』の大宮忍はときおり異常な行動を見せる。上の例も然り、金髪への執着も然り、アリスからのプレゼントを捨てかけたこともあった気がする。似たようなキャラでは『ご注文はうさぎですか?』ココアなども大概だろう。彼女らの行動は登場人物コミュニティからも読者からも理解されないコミュニケーション不全を作り出している。だからといって彼女らがコミュニティから疎外されることはあまりない。「そういうキャラ」として許されている。

 「そういうキャラ」というのは突飛な彼女らに限る話ではない。同じくきんモザごちうさで言うならば、アヤヤ/リゼはクールぶってるけどいざというときに赤面して慌てるキャラ、アリス/千夜はほんわかした性格でありながら周囲とずれたひと言を放り込んでくるキャラ。キャラクター毎に「そういうキャラ」が定められており、「そういうキャラ」同士がコミュニティ内でどのような化学反応を起こすかをネタにして楽しむ。あの手のマンガは、キャラ属性を推進力にしてコマを進めている。

 推進力で言えば、ほかに『ゆるキャン△』のキャンプ、『少女終末旅行』のポストアポカリプスのようにテーマを推進力とする例、もちろん廃校の危機を救うべく奮闘する『ガールズ&パンツァー』のようなストーリーを推進力とする例もあるだろう。

 

 さて、『ゆゆ式』にはストーリーもテーマも先天的なキャラ属性も与えられていない。何を推進力としてコマを進めるのかといえば、それは紛れもなく「楽しい日常」を過ごそうとする情報処理部3人の弛まぬ努力である。

 

 かつて、関係者の言葉を拡大解釈して「ゆゆ式は自然体だから良い」などとする言説が流行ったことがあったが、これは誤りだ。露骨な反証例を挙げれば次の二つである。

 

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 ともに『ゆゆ式』5巻から順にp.26, 30 である。このように各人の思考が読み取れるコマは非常に興味深い。見て明らかだが両方とも前の会話をふまえて、次の会話を検討し、場が盛り上がるよう最良の選択をしようと判断を下すという思考の流れが描かれている。つまりここから、情報処理部の巧みな会話劇は偶発的/自然の現象ではなく、すくなくともある程度は意図的に、そうしようという選択の結果として実現されたものだと考えることができる。

 この2場面だけじゃないか? と言われても困るので念のためほかにも挙げておこう。いずれもゆずこのセリフであるが、いずれも先と同様に3人が互いの反応をうかがいつつどう会話劇を進めていくか計算している様子がうかがえる。彼女らは日頃からこのような計算を積み重ねているのだろう。

 

「はー唯ちゃんは欲しい返しをくれるな」(5巻, p. 52)

「…がんばってふくらませた方がいい?」(6巻, p. 94)

「詰めると思わせて詰めない私のすごさね」(6巻p. 103)

 

 ゆずこのボケを唯が突っ込み、縁が笑ったり乗っかったりして会話劇を盛り立てる。ほかの2人を笑わせるために必死になって考えている。まるで漫才師だ。彼女たちはみずからネタを発見し、”common sense” のなかで調整して、会話劇を完成させるという流れを作品中に作り出し、所与の条件に頼らずしてマンガを推進させている。

 この点でゆゆ式は特異なマンガである、ということができるのではないだろうか。

 

 『イベントがなくても、楽しい毎日。』というのは、安穏と3人に与えられたテーマではない。不断の努力によって勝ち取られ、維持されていくものである。

 そのとき、情報処理部の3人は「楽しくないという敵」を積極的に回避している、もしくは積極的に会話を盛り上げることによって「楽しくないという敵」を克服している、と見ることができるのではないだろうか。

 

 

 

追記

 言いたいことは以上だが、現時点で見えている検討すべき点をいくつか。

① いつもいつも「ネタ」を作ってるわけじゃないでしょ?言いすぎじゃない?

② 「ネタ」を意識的に作ってるとわかる例が5巻あたりに固まってるけど?

③ というか「楽しく過ごす」と「ネタを作る」を整理せずにごっちゃに使ってない?

④ 情報処理部以外の4人はどうなるの?

 

 紅茶氏も先のブログやツイッターでこの辺りに言及していたし、私としてももういっこ記事書ける。上記の点に踏み込むには情報処理部と相ちゃん組のコミュニティの比較や『ゆゆ式』自体の変質について語らねばならないだろう。上では「ゆゆ式は自然体」論をぶった切ったものの、1巻を中心にたしかに3人が全くの自然体で過ごしていた時間もなくはなかったのである。それが徐々に、特に5巻前後から彼女らの会話劇に変化が現れるのだ。

 時間があったら詳しく書きたい。

 時間があったら。

「雲のむこう、約束の場所」ラストシーンについての考察

  「君の名は。」の大ブームを記念して、「雲のむこう、約束の場所」が駅前のちっちゃな劇場でリバイバル上映されると知ったとき、私は、半分この作品を銀幕で見れることに興奮しつつ、もうはんぶんは雪辱を果たす気分で、意気揚々とチケットを買った。

 雪辱いうのも、それまでこの作品をよく理解できていなかったのだ。例のごとくきれいな映像と、しっとりとしたモノローグが延々と続き、状況は転々と変わるものの、次の瞬間には唐突に幕切れ。秒速や言の葉の庭だってお世辞にもわかりやすい筋書きとはいえないが、この作品はそれにもまして掴みどころがない。はじめて見たのは3、4年くらい前のことだったかと思うが、私はさぞマヌケな顔でスタッフロールを眺めていたことだろう。

 だからじっくりと見なおす機会を待ち望んでいたのだ。

 

 そして改めて鑑賞し、「新海誠はアタマおかしいんじゃないか?」と思った。

 どうにもこの作品はやばい。以下には、私が感じた「雲のむこう、約束の場所」のやばさをまとめる。結論から言うと、私は、この作品のオチがニンゲンの理解の範疇を超えていると考えている。

 

 ざっとあらすじを書く。

 本作品の主人公、ヒロキ(藤沢浩紀)と友人のタクヤ(白川拓也)は、海峡を挟んだ敵国にそびえる謎の巨塔に強いあこがれを抱き、独学で飛行機「ヴェラシーラ」の製作を進めていた。この企みはひょんなことから浩紀が思いを寄せる同級生、サユリ(沢渡佐由里)にもばれてしまう。三人は未完成の白い飛行機と、はるか遠くの天蓋を貫く巨塔を前に、いつかあの塔まで飛ぼうと約束をする。

 それと前後して、サユリはふしぎな夢を見るようになった。それは、もしかしたらあったかもしれない、別の選択肢をたどった宇宙、いわば「並行宇宙」で彼女ひとりが彷徨っている夢である。夢はしだいに身体を蝕み、ついに彼女は眠り続けたまま目覚めることなく、意識は「並行宇宙の夢」に閉じ込められてしまう。

 サユリの身体は、ヒロキとタクヤに知らされることなく東京の大病院に搬送され、そのショックから二人はヴェラシーラを完成させないままに別々の道をたどりはじめた。しかし、サユリと「並行宇宙」、そして謎の巨塔のつながりが明らかになると、二人は数年の時を経て再びヴェラシーラの仕上げに取りかかる。すべてはあの日の約束を果たすために。サユリの身体を塔のもとへと届け、彼女を目覚めさせるために。

 

 ……だいたいこんなかんじか?

 まずもって、舞台設定が既に難しい。 「並行宇宙」ってなんだ? ユニオン? 南北分断? 開戦? 謎の物理学者エクスン・ツキノエ? 「彼女を救うか、世界を救うか」????

 初めて見たうちには、このあたりの設定を飲み込むだけで脳ミソの大部分を持っていかれるだろう。しかし、オチのニュアンスを味わうだけに絞るならば、これら雑多な設定に深く立ち入る必要はない。

 大切なのは、次の三点のみである。

① サユリは、夢の世界にひとり閉じ込められている。

② ヒロキとサユリは前々からとても親しい関係にあったが、夢の中でより強く惹かれるようになった。

③ サユリの身体を塔に届けることで、彼女は夢から解放されて目を覚ます。

これだけだ。

 学生時代のヒロキは明らかにサユリへ片思いをしており、サユリもヒロキに対しては好意的に接している。たぶん放っといてもくっつくレベル。

 だがサユリの「夢」は、二人の素朴な好意を尋常ならざるものへと変えていく。夢の世界にとらわれたサユリは、孤独と恐怖に苛まれながらも、記憶の中のヒロキの存在と、ヴェラシーラで塔まで飛ぶという約束を心の支えにしてひたすら耐え続けていた。この彼女の想いが呼び寄せるのか、ヒロキもうたた寝をした瞬間に彼女がいる夢の世界を共有することができた。ただしそのつながりが微弱なためか、またはヒロキが途中で目覚めてしまうためか、互いの気配を感じながらもなかなか巡り合うことができない。探し、求めあいながらも、あと少しのところで切れてしまう、もどかしい時間が続く。ヒロキの心も、もともとサユリの失踪が刺さっていたためか、いつしかこの「サユリがいる世界」の夢に引きずられてしまうようになっていた。

 大切なのは、「ヒロキとサユリは現実世界でまったく接点を持たないまま、夢の世界では互いをつよく求めあう関係になっていた」ということである。サユリにとってヒロキとの約束は、虚無の世界に残された唯一の希望であったし、ヒロキからしてみれば「世界の中心」と形容するまでに入れ込んでいて、しかも苦い青春の象徴にもなってしまったかつての片思い相手が毎晩枕元に立つわけである。互いの存在がどれだけ互いの精神を蝕んでいたか、まったくもって想像がつかない。

 これは現実的、肉体的には一切接触のない、精神純度100パーセントの恋愛感情だ。秒速5センチメートルでも似たようなことを書いた記憶があるが、こんな感情を表現するに「恋愛」などという凡庸な表現では少々役不足だろう。「崇拝」、「精神汚染」、「信仰」、「依存」、こんな、おどろおどろしい言葉のほうが、かえって似あうかもしれない。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 サユリの病変のおかげで二人の関係は異常なものとなってしまったわけだが、あくまでこれは、夢限定の話である。夢からはいつか目覚めなければならない。

 

 さて、ここからが本題である

 読者諸賢は「すっごくいい夢を見ていたはずなんだけれども、目覚めたらなにが楽しかったのかすっかり忘れてしまった」「夢の中ですごいことを思いついて起き上がってからしばらくウキウキしていたのに、顔を洗っているうちに思い出せなくなってしまった」などという記憶はないだろうか。なにかすごく大切なことを忘れてしまったような気がするが、なぜ大切だったのかすら思い出せない。昼食を食べるころには、素晴らしい夢を見た、という事実さえおおかた忘れているものである。

 ヒロキとサユリは夢の中で特別な感情を築いたが、サユリを夢の世界の孤独から救うためには、夢から目覚めさせて現実に連れ戻さねばならない。これは即ち、夢の世界でのふたりの絆や想いを忘却することを意味する。サユリの「なにかを失う予感」というのはラストシーンではっきり示されているとおり、この忘却を指す。

 

 問題はこの「忘却」なのだ。

 ここまでの内容を映像から読み取って理解するのは、なかなかクセがあるものの、まだなんとか付いていくことができる。あの滔々と続くモノローグやら夢の世界でハトを追いかけるという抽象的極まる描写やらから二人の想いを拾い上げて上記の内容を推測するというのもなかなかキッツイ作業であるが、「ああ、この『忘却』が今回のオチで感動ポイントなんだな」とアタマで理解することは、まあ、まだなんとかなる。

 しかし、その感動ポイントに「共感して、感動できるか」という段になると、もはや簡単とか難しいとかの話ではなくなる。論理的に、不可能に思われる。

 だって、そうでしょう? 忘れちゃった感情に、どう共感しろっていうの?

 本作のラストシーンで、サユリは無事に夢から解放されて現実の世界に目覚めた。その瞬間、夢のなかでサユリが危惧していた通り、「夢のなかの自分」が抱いていたヒロキへの異常なまでの想いは、きれいさっぱり忘れてしまった。その喪失の衝撃は、サユリの涙となって表出する。ここまではわかる。でも、これにどう感動しろというのか?

 夢から目覚める寸前でサユリはこれから失うものとその大きさを自覚する。忘れちゃう、忘れちゃう、いやだ、忘れたくない~~~!!と思いがこみ上げて来たる瞬間にむけて場面を盛り上げていく。しかし、その昂揚の最高潮は、「あ、忘れちゃいました(笑)」だ。

 そもそも想いの「喪失」と書いたが、これは「夢のなかのサユリ」が「夢のなかのサユリの想い」を喪失する、という話である。現実世界のサユリだけ見ていれば、彼女は何も「喪失」なぞしていない。ただ眠りから目覚めただけであり、これからまた現実世界を生きていくだけの話である。いちおう涙は流しているが、なぜ自分が泣いているのか、その本質は自身でも理解することはできない。「私たちの、夢での心のつながりが、どんなに特別なものだったか」なんて、だれにもわからなくなってしまう。「夢から目覚めた自分」は「夢のなかの自分」に100パーセントの共感することができないのだ。

 この様子を見せられて、視聴者はどこに感動すればよいのか。「あ~あるよねそういうこと、なんで忘れちゃうんだろうね(笑)」くらいは共感できる。

 しかし、それまでだ。これ以上の共感は創造されない。サユリが目覚めたとたんに夢の世界はすべて失われる。ラストシーンに至ったとたんに、そこまで盛り上がってきた物語はすべて無かったことにされる。サユリ自身もその喪失の重みを理解できないのだし、視聴者だって視聴者自身の夢の喪失すら理解ができないのだ。

 本作のラストに据えられたサユリの喪失に、視聴者が共感できるわけがない。したがって、視聴者は混乱のうちにスタッフロールを眺めるしかないわけだ。マヌケ面で。

 

 「雲のむこう、約束の場所」がやばいのは、この一点である。この作品は「『感動すべきポイントが参照できないという状況』そのものに感動せよ」と視聴者に強いているのである。論理的に、そういう状況が発生しうる、ということは理解できるものの、それを中核に据えて作品をひとつ作ってしまうという新海誠の脳ミソの構造、「ヤバい」というほかない。

 

 この「感動すべきポイントが参照できない状況」をラストシーンに据える、というのは脚本上のご法度といってもよいのではないだろうか。

 異世界の冒険を終えた主人公が現実世界に戻ってくる拍子にすべてを忘れてしまう、という筋書き自体はありふれたものであるが、たいていは何かしら別のオチがつく。

 具体的には、「ダメダメだった主人公は冒険を経て成長し、記憶こそなくしているものの、帰ってきた現実世界では自信をもって生活を送れるようになる」とか、「夢のなかの人物と現実世界で再会して、そこから新たな関係が動き出す」(あれ、これって「君の名は。」じゃないか?)、とか。どこかで見たこと、読んだことがあるストーリーだろう。

 興味深かったのは、同じ時期に劇場でやっていたハリーポッターシリーズの「ファンタスティック・ビースト」である。この作品でも、ノンマジ(非・魔法使い)の男が魔法の冒険に巻き込まれた末に忘却魔法をかけられる、という記憶抹消のシーンがラスト付近に置かれていた。

 しかし面白いことに、ここは感動ポイントとして据えられたものではない。忘却魔法によって大冒険の記憶を奪われた哀れなノンマジがマヌケ面で日常生活に戻っていく、という「喜劇」なのだ。悲劇として成立しえないのだから、そのように処理するにほかはない。

 

 しかし「雲のむこう、約束の場所」は、新海誠は、このパラドックスをそのまま視聴者に突き付けている。

 あの作品のラストは、だれにもわからないのだろう。

 

 

 

追記。

 ヒロキは泣くサユリにまたこれから関係をつくっていこうなどと慰めの言葉をかけているが、果たして彼らは、夢のなか以上の関係を、現実世界で築いていくことができるのだろうか。作品冒頭には不穏なモノローグが一つ差し込まれているし、小説版には後日談がはっきりと書かれているらしいが、正直この点については考えを深めてもあまり面白くない。ヒロキの最後の言葉を、これからの関係の支えとして、二人の新たな「約束」として、その可能性に賭けるほうが、まだ救いがあるというものだ。

 

「大丈夫だよ、目が覚めたんだから。これからぜんぶ、また。」

 

 

 

あとがき。 

 仙台のちいさな劇場で「雲のむこう、約束の場所」のリバイバル上映がなされたのは去年の12月、つまりこの記事の構想を持ちはじめてから、ゆうに半年が過ぎてしまった。せっかくだからと「君の名は。」のBlu-rayディスクが発売前にまとめた。

Wordのルビ「右縦寄せ」の謎

 ちょっと用があって、過去に作ったWord文書をいじっていたらこんなものを見つけました。

f:id:kagami_sensei:20161203032055p:plain

 

 「配置」の部分にある 「 右 縦 寄 せ 」という選択肢。

 

 なんだろうなーと不思議におもい、新しい文書ファイルで(古いファイルは変に壊したくない)この機能を試そうとしたところ、

f:id:kagami_sensei:20161203032235p:plain

 

あれ?

 

……無い。

 

 はい、この「右縦寄せ」は現在のWord 2016には存在しない機能です。

 もともとの用事を放置して、ググったりMicrosoftのサポートに電話したりと3時間ほど調べたところ、「右縦寄せ」はWord 2007くらいまでは実装されていたものの、Word 2016ではなくなってしまったことがわかりました。

 ルビの配置をそれぞれ比べてみると、次のようになります。一目見てわかるとおり、「右縦寄せ」は、“文字の右側に縦書きでルビを振る” というもののようです。

f:id:kagami_sensei:20161203032423p:plain

 ただ、Word 2016でもさっきみたいに(Word 2007以前の環境でつくった)古いファイルを開けばちゃんと「右縦寄せ」が表示されるわけで、ウラ機能としてちゃっかり残っています。そしてちょっと手間ですが、Word 2016で新たに「右縦寄せ」を含む文章をつくることも可能でした。

 

 Microsoft Wordのルビ機能は、ルビ機能として単体で存在するわけではなく、数式などでみるような特殊な文字の並べ方を指定するための「数式フィールド(EQフィールド)」を使いまわしたものです。

 たとえば、適当にルビ付き文字をつくった後に「フィールドコードを表示」を選ぶか、「Alt」と「F9」を同時に押すかをしてみてください。次のように表示されるはずです。f:id:kagami_sensei:20161203032620p:plain

  暗号のようなものが表示されました。これがルビの正体だそうです。

(比較のため、元の文章「氷を」とフィールドコードを上下に並べています)

 文字の配置は「\* jc2」の部分です。「jc2」は、配置のさせ方の2番、すなわち「均等割り付け2」を意味しています。先の配置の比較の図にもすでに書いておきましたが、この数字をいじれば、ルビの配置を変えることができます

 一般的にはもう設定できない「右縦寄せ」も、配置の5番「jc5」に割り振られています。試しに「jc2」を「jc5」に書き換えてから戻してみてください(選択して右クリックから「フィールドコードを非表示」、もしくは再度「Alt」+「F9」)。

 

 ね、「右縦寄せ」になったでしょう?

 

 「右縦寄せ」について調べても出てこなかったので、自分でまとめちゃいました。互換性を保つためか、Word 2016でもひっそりと生き残っていますが、基本的にはもう表立って指定できなくなってしまった設定です。いつ完全に削除されてしまってもおかしくありませんので、今後は使わないほうが無難かもしれません。

 その他「数式フィールド」については、すでに様々な方がまとめてくださっていますので各自おググりいただいて、そちらを参照してください。

ブログ、始めました

 改めまして、こんばんは。かがみと申します。
 初めてブログというのを作ってみました……いや、そういえば初めてじゃないですね。たしか中学だか高校だかの時に、部活の友人に誘われてつくった覚えがあったような。前略とか、絵文字にあふれた日記帳とか、パステルカラーの内輪向け自己紹介ページとか。

 あまり思い出したくないモノが色々ありましたので"ブログ"というものから距離を置いていたのですが(あと初回設定めんどくさいし、Twitterのほうが楽だし)、映画「君の名は。」を見たら長文を書きたい欲がわいてしまい、重い腰を上げてみました。星が降ってしまったのですから、仕方のないことです。

 すでに三篇の記事が上がっており、最初のふたつは「秒速5センチメートル」、最新のものは下に挙げる「君の名は。」の感想文となっています。

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 今後については、あいかわらず批評チックな文章を書き綴るのか、日記のような扱いになるのかはまだ決めていません。ただ、ブログ設立の理由が理由ですので、もうしばらく新海誠にからんだ記事が並ぶことと思います。もうしばらくお付き合いください。

 なお当ブログの内容は、思いついたことを、チラシの裏やTLに流されていく呟き、ローカルのTXTファイルに打ち込んだだけではなんか惜しいからまとめてみただけ、言ってしまえばオープンな自由帳みたいなものでして、あまり深い思索に基づくものではないということ、だれに向けたものでもないということを言い逃れしておきます。
 なにか問題があれば、認識を改めたり、書き直したり、削除したりと検討しますのでコメントなどで気軽におっしゃってください。必ずそうするとも限りませんが。

 また「かがみ」という名はこのブログにおけるハンドルネームとなっています。IDも "kagami" で取りたかったのですが当然もう使われていましたので、「言の葉の庭」の雪野先生をイメージして「せんせい」と足してあります。あまり深い意味はないのですが、日本の古典文学も好きなのでその手の記事もいつか書けたらいいですね。

 

 それでは、ずいぶん遅いあいさつとなってしまいましたが、なるべく放置しないようにがんばりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

かがみ

秒速5センチメートルは、「バッドエンド」か?

 勢いでブログを作って2記事目。ひきつづき新海誠の代表作「秒速5センチメートル」の話をしたい。前回の記事は読んでいただけただろうか。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

  読んでない? じゃあムリに読まなくていいですよ。

 要するに、秒速は ”神格化された明里との埋まらない距離” を描いた作品であるという話をしていた。貴樹はたしかに明里に恋をしていただろうが、彼女との距離がひらくにつれて、明里の存在と雪原での思い出は神格化にちかいレベルで美化がなされた。人間としての明里に恋をしているのではなく、神聖なる幻影に恋をしているのである。これではもはや、貴樹の明里に対する感情は、恋愛よりも「崇拝」といったほうが近いかもしれない。そんな内容である。

  さて、この秒速5センチメートルであるが、かねてより観る者の心を深く抉る、いわゆる「鬱アニメ」として知られていた。

 純粋で美しくもはかない恋の思い出を巧みに切り取った「桜花抄」となにも得るものなく空っぽのまま大人となり、自身を摩耗させるだけの日々を送る「秒速5センチメートル」の対比は凄まじいものがあり、特に後者は、青春が思い出となり心の弾力を失いつつある20代~30代男性が抱える、漠然とした不安や劣等感、虚無感と見事に共鳴する。美しいキスはより美しく、残酷な現実はより冷淡に描く、新海誠の映像美は物語のインパクトをさらに強めており、彼にしか築き上げられない芸術世界には熱狂的なファンがついていた。

 このファンの一部で薄らぼんやりと共有されているのが、今回話題としたい「秒速5センチメートルは、バッドエンドの物語である」という認識である。

 

 流れ的にいうまでもなく、私はこの「バッドエンド論」に首をひねっている。

 たしかに第三章「秒速5センチメートル」はやり場のない閉塞感に鬱屈とした貴樹のつらい日常が描かれており、ハッピーエンドには程遠い雰囲気である。でも、もうちょっと考えてみてほしい。

  話を簡単にしよう。もしも、秒速5センチメートルが「明確にバッドエンド」ならば、どうなるか。

  無情な時の流れによって貴樹は冴えない大人の一員に成り下がるも、どこか幼いころの初恋が胸に引っかかったままで、駅のホーム、交差点、すれ違う人のなかに明里の姿をさがしてしまう。「もう一度会いたい。」貴樹の強い念がつうじたのか、桜舞う春のある日、かつての通学路であった踏切で、彼は、美しく成長した明里とすれ違う。しかし、一瞬の反応の遅れから遮断機と電車にさえぎられてしまい、ふたたび線路の反対側が見えるようになったころには明里の姿はなかった。来た道を戻り必死になって探すも、もはやどこにも見つからない。貴樹はがっくりと膝をつき、みじめに嗚咽を漏らした。

  これならば、紛うこと無きバッドエンドである。見つけられたが明里に忘れられていた、とか、彼氏と楽しそうに話してて近寄ることすらできなかった、とかでもいい。明里に対する想いが一方的に空回りし、なんの救いも得ることができなかった貴樹、まさしく悲劇というほかない。

 ところがどっこい、本作の最後はこうなってはいない。
 踏切で明里とすれちがった貴樹は、電車の過ぎ去った線路の向こうに彼女がいないことを確認する。追えば間にあうだろう。

 しかし、彼はふっと笑みを漏らし、くるりと前へ向き直るとそのまま歩み去ってしまう。これはどういうことなのか。

 解釈の可能性はひとつではない。

 ようやく心を縛っていた幻影を「むかしの美しい思い出のひとつ」として整理する決心がつき、新たな、彼自身の人生を歩み始める、そんな心持ちの変化が現れた描写なのか、または、明里がいまは彼女自身の生活を送っていることを静かに悟り、そっと身を引く刹那を描いたのか。もしくは、もう貴樹にとって現在の明里がどう生活しているのかなどどうでもよいのかもしれない。彼が崇拝しているのは想い出の中の明里、神聖なる幻影であるところの「過去の明里」であって、いまさら世俗的で神秘性の欠片もない「現在の明里」になぞ魅力を感じない、そういった捉え方もできる。

 いずれにせよ、「ふっと微笑んで歩き出す」というのは、安直なバッドエンドとはちょっと食い違う表現なのだ。この微笑みの中に、私たちは彼の決意を、救いを、考えを、これからを、読み取ることができる。
 ハッピーエンドというわけではない。しかし、この一瞬に貴樹の思いが詰まっており、かつその結末が明示されないだけ、物語の幅が広がって味わい深いものとなる。わかりやすいバッドエンドで物語を締めないおかげで、私たちは、貴樹の「明日」を思い描くことができる。

 

 つよく言い切れば、「秒速5センチメートル」は決してバッドエンドではない。「秒速5センチメートル」は、貴樹が「明日」へ踏み出すまでの過程を描いた物語なのである。

 最後に、恐れながら新海誠監督がこの作品に寄せたメッセージを紹介し、記事を閉じたい。

我々の日常には波瀾(はらん)に満ちたドラマも劇的な変節も突然の天啓もほとんどありませんが、それでも結局のところ、世界は生き続けるに足る滋味や美しさをそこここに湛(たた)えています。

現実のそういう側面をフィルムの中に切り取り、観終わった後に、見慣れた風景がいつもより輝いて見えるような、そんな日常によりそった作品を目指しています。

コミックス・ウェーブ・フィルム秒速5センチメートル』公式サイトより
新海誠監督 本作に寄せて」

http://www.cwfilms.jp/5cm/director/index.html(2016年10月2日取得)