星降りぬ

書かねば。

壮大になにも起こらない「天気の子」② ~「『トゥルーエンド』説に見る物語の欠落」編~

追記:2021年1月4日に大きく論の構成を変え、タイトルも変えました。

 

 

1.「トゥルーエンドっぽい」って、なんだ?

この記事は、② と入っているように前回の続きなのだが、読んでいただけただろうか。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 読んでない? じゃあ読まなくていいよ。 

 主人公の帆高は、みずからの信念のままに道を選んで突き進んでいく、みずみずしい無鉄砲が心地よいキャラクターだ。いわゆる「社会常識」とか「善」とか「悪」とかに縛られずに物語を駆け抜けている。でも「社会常識 対 主人公」という構図は、主人公らをオトナ目線で表面的に眺めた評価であって、当人らの主観を無視している。それに、異常気象が悪化していくのは現代社会でも「天気の子」の世界でも既定路線のはずだ。雨が降り続いて東京が海に沈んじゃったって帆高たちだけに責を負わせられるわけじゃないし、帆高たちの行動や選択を社会的に「良い」とか「悪い」とかばかりで評価するのは違うんじゃないか?

                       

 ざっくりそんな話をしていた。

 「天気の子」を語るとき、新海誠がめずらしくアングラな場所を舞台にして反社会的な事物や行動を描いていることに注目する見かた、社会規範と帆高らを後押ししたい気持ちとの間で葛藤する須賀の姿を読み深める見かたなどがあるが、今回それらは脇に置いてみようという意志表明である。

 

 ところで「天気の子」は、公開直後から不思議な感想がみられた。

 曰く、これは「ゼロ年代セカイ系エロゲ」の「トゥルーエンド」だ、という。

 

cr.hatenablog.com

 

 「天気の子」の「原作」は、選択肢のえらびかたによって複数のエンディングが見られるノベル型ゲームであり、映画はゲームを何周かしてやっとみれるエンディングであるという。

 劇場版「天気の子」は劇場版「AIR」同様、大胆な構成となっています。というのも原作では3ヒロイン(家庭版では島の幼馴染が加わるため4ヒロイン)だった物を、陽菜ルートかつTrueエンドのもののみに再構築しているからです。その結果同じくメインヒロインであった夏美や四葉はあくまでサブやゲストキャラ扱いとなりました。

PS2版天気の子を俺たちは遊んだことが有る気がしてならないんだ。 - セラミックロケッツ!(2021年1月3日取得)

 

 もちろんそんな原作ゲームはない 。 

 しかし、妙にしっくりくる喩えだ。

 「天気の子」が「セカイ系っぽいね」という感想はもっともだ。帆高はセカイを見捨てて彼女をとるわけだから、そこまでは納得である。

 新海誠自身は「セカイ系」というものを深く意識して作品を作ってはいないという*1が、彼が作るものが「セカイ系」になってしまうという節がある。

 

 しかし「トゥルーエンド」とはなんだろうか。

 いくつもの分岐の果て。数々のバッドエンドとそこそこのヒロインエンドを超えた先。あらゆる可能性のすえようやくたどり着ける真の終着点。

 ふしぎと理解できる、この「トゥルーエンド」感はなんだろう。

 帆高が陽菜を救う選択をしたからトゥルーエンド? 結果陽菜を奇跡的に救えたから? 東京が沈むというぶっ飛んだオチだから?

 どれも弱い。このくらいは映画でも小説でも想定される範囲、よくある物語の展開だ。わざわざ「トゥルーエンド」なんて言葉は使わなくていい。

 「ゼロ年代セカイ系エロゲ」オタクのこじつけ厄介妄想?

 そうかもしれないが、その手のゲームはあまりやらない私でもこの喩えは納得できた。「ゲームを何周もやってようやく見れるエンディング」といわれて腑に落ちる何かが、この作品にはあるのである。

 

 この記事では「天気の子」 の「トゥルーエンド感」を論じよう。

 結論からいえば、セカイ系エロゲのトゥルーエンドに頻出の要素を備えているから「トゥルーエンド感」なわけではないと思う。

 「トゥルーエンド」として見ないと、この作品は物語として成り立たないのである。

 

2.感情移入できない主人公・帆高

 まわりくどいが、まずは主人公・帆高くんの話をしたい。

 新海誠自身は「天気の子」を「現代版の天空の城ラピュタ」と表現していた。8月9日にTジョイ新潟万代で行われた舞台挨拶での発言である。

 なるほど、突っ走って女の子を助けて、結果として夢の技術が詰まったラピュタを滅ぼしてしまう。「天気の子」と似ているといえなくもなくもなくもなくもなくもない。

 実際は似て非なる代物なのだが、ちょうどいいので両作品をぶつけながら「天気の子」の特徴を洗い出そう。

 

① パズーは正義だが、帆高は正しさの逆をゆく

 「天空の城ラピュタ」の愛すべき悪役ムスカ。パズーの前で本性を表わすのはラピュタに降り立った後となるが、観客からすれば冒頭の飛行船のシーンから一貫して悪役として姿が示されており、物語上はじめから、パズーは悪いオトナに立ち向かう健気なコドモというポジションに置かれる。

 対して我らが帆高くん。彼も冒頭からポジションが決まっている。

 

 「冒頭の船のシーンで、帆高は雨が降ったことを喜んだように見えました。彼はどのような気持ちだったのでしょうか?」(10代・男性)

 

「冒頭の船のシーンは、帆高の傾向や性格のようなものを描いたつもりです。『非常に激しい雨が予想されます。安全のため、船内にお戻りください』という放送がかかり、みんなが船の中に戻っていくんですが、そんななか帆高だけは逆方向に歩いていく。『この男の子は、人と反対の方向に行ってしまうんだ、大人に言われたことと逆のことをやってしまうんだ』ということを描きたいと思っていました。大雨に喜んでいるのは、島を出てきた解放感もあると思います。帆高はみんなが嫌がるような、危険だと思うようなことに解放感や喜びを感じてしまう。そういった、物語の行く末を示しているシーンになります」

 

『天気の子』新海誠監督に、読者の疑問をぶつけてきた!野田洋次郎への愛の告白(!?)から、夏美の就職先まで一挙に解答! - 映画 Movie Walker

(2019年8月15日取得)

 

 帆高はのっけから「人と逆方向のことをして喜んじゃう子」である。「正義」の側にはなれない主人公だ。

 雨の甲板ではしゃぐくらいならまだフォローの余地があるが、帆高の性格描写は徹底されている。

 理由はわからないが高校生で家出。とびだした先は近所の林やお寺ではなく船に揺られてウン時間の東京。行く当てもビジョンもなくネカフェでその日暮らし。金がなくなってきたら風俗店の事務所に突撃。明らかにヤバめのオッサンたち相手にバイトの面接。しかもめげずに複数軒。うっかり拳銃を拾うけれど届け出ずに持ち歩いたあげく人に向けて撃っちゃう。

 「無鉄砲」「衝動的」「世間知らず」「向こう見ず」

 コミカルな演出で中和をはかっているものの、高校生のやることとして度が過ぎている。一連の帆高の行動は私たちの感覚になじまない。

 しかしこれが今回の主人公・帆高くんだ。視聴開始5分にして「主人公に感情移入しづらい」という問題が発生しているが、とりあえず目をつむって次へいこう。

 

② 無鉄砲な帆高には、葛藤も喪失もない

 「天空の城ラピュタ」の名シーンは数多いが、パズーがムスカにまるめこまれ、シータをおいて里に帰る場面は白眉である。

 投獄されていたパズーは、突如シータが軍の調査に協力することに同意したことを一方的に告げられてシータから引き剥がされてしまう。わずかばかりの謝礼としてムスカに金貨を握らされて砦を飛び出したパズーは、道中で金貨を投げ捨てようとするものの、どうしても捨てられずに持ち帰ってしまう。

 突然の別れに納得できずシータを取り戻したいという気持ちと、これがシータのためであって労働者として自身の生活も考えなければならないという気持ちで葛藤し、現実的な選択肢を受け入れることと引き換えにシータとともにラピュタを追う夢を諦めてしまう。

 わずか数分間でセリフも少ないが、見事な心情描写だ。

 このシーンは盗賊団に合流してラピュタを目指すきっかけとなり物語の転換点となるが、同時に「失意→再起」の感情的なメリハリとしても機能している。信念と現実のあいだで悩む、とか、失ったものを取り戻すためにもういちど走り出す、とか、わかりやすい感情移入ポイントである。つづくラピュタへの冒険にむけて、観るものをぐっと引きつけている。

 

 で、帆高くんなんだけど。

 

帆高や陽菜は憧れのまま走り始め駆け抜ける少年少女であってほしい

 

帆高は家出をして東京に出てきますが、その家での理由を劇中では明確に語っていません。トラウマでキャラクターが駆動される物語にするのはやめようと思ったんです。映画の中で過去がフラッシュバックして、こういう理由だからこうなったんだっていう書き方は今回ではしたくないな、と。内省する話ではなく、憧れのまま走り始め、そのままずっと遠い場所までかけていくような少年少女を描きたかったんです。

(中略)

バッテリー切れを気にしないような人たちであってほしいと思いました。充電が残り数パーセントだからと立ち止まり、電源を探すようなことをしない人たち。僕自身はきっと慌てて立ち止まる人だし(笑)、多くの大人たちもそうだと思うんですが、自分にできないことだからこそ、彼らにはそうあってほしかった。ただ真っ直ぐに走り抜けていく人たちとたどり着くその先を、僕が目撃してみたかったんです。

 

2019年 「DIRECTUON INTERVIEW 新海誠」『「天気の子」パンフレット(第一弾)』「天気の子」製作委員会 

 

 うん、たしかに駆け抜けてる。立ち止まっている瞬間がない。

 陽菜を取り戻すために帆高が行動を起こすストーリーは、一見ラピュタのそれに近いが、感情の動きはいたって平坦である。

 陽菜に「晴れてほしい?」と聞かれた帆高はうっかり「うん」と答えてしまう。冷静に考えれば「セカイか、彼女か」の重大な選択であるにもかかわらず、帆高の返答はどうにも軽い。なんの葛藤もなく物語がスタート。

 陽菜がいなくなったあとの反応は?当然おどろいている。焦っている。陽菜の失踪に気づいた直後に警察がなだれ込み、帆高と凪は混乱のままに確保されてしまう。パトカーに乗せられる道すがら、陽菜にプレゼントをした指輪を発見し興奮して叫ぶ。パトカーに乗せられて状況が整理されると刑事にむかってこう迫る。

 

ふいに、胸の内側が燃えるように熱くなる。これは――怒りだ。猛然と腹が立ってくる。

「陽菜さんは……」僕はリーゼントを睨みつける。

「陽菜さんと引き換えに、この空は晴れたんだ! それなのに皆なにも知らないで、馬鹿みたいに喜んで……!」

また涙が迫り上がってくる。僕はずっと泣いてばかりいる。それが情けなくて、僕は思わず膝を抱える。

「こんなのってないよ……」

口から漏れ出た言葉もまるきり子どもの駄々のようで、僕はますます泣けてくる。

 

2019年 新海誠『小説 天気の子』角川書店

 

 陽菜がいなくなったことを状況としては正しく理解しているものの、あくまで怒りが優位である。陽菜がいなくなったことをあきらめて受容しているわけではない。だからパトカーから降りればこうだ。

 

「……あの、刑事さん」

僕は思い切って声を上げた

「……なに?」

リーゼントが振り返り、冷ややかな目で僕を見下ろす。僕は意識して息を吸う。パトカーのなかで考えた言葉を、思い切って口に出す。

「陽菜さんを――探しに行かせて欲しいんです。俺、今までずっとあの人に助けられてきて、今度は俺が助ける番なんです。見つけたら、ちゃんとここに戻ってきます。約束しますから――」

 

2019年 新海誠『小説 天気の子』角川書店

 

 帆高のなかでは、一瞬たりとも陽菜の存在は失われていない。手を伸ばせばきっと届くはずの存在であり、あとは手を伸ばすか伸ばさないかの問題である。あきらめたわけではなく、あきらめるつもりもないのだ。

 新海誠の宣言通り、ひたすら駆け抜けるキャラクターとして動いているわけだが、これではスタートもゴールもない。漫然と走っているだけだ。

 ここで一回ガッツリ凹んでくれていたら、一晩独房でおとなしくしていて失意に沈んでくれていたら感情移入もしやすかっただろう。しかし再起もなにもなく、ただただ無鉄砲にものをいわせて突っ走っていってしまう。

 こうなってしまうと、なぜ突っ走っていくのかと訊かれたら「彼はそういうキャラだから」と説明するほかない。

 

ラピュタは冒険活劇だが、天気の子は

 ラピュタに比べたら「天気の子」の冒険のスケールはあまりに小さい。

 たしかにパズーも帆高も、飛んだり跳ねたり走ったりぶっ放したりしているわけだが、派手なアクションを見せてムスカ相手に立ち回るパズーはいかにも「冒険」をしているのに対し、帆高のそれはもっぱら「逃走」である。バイクの後ろに乗っけてもらったり、須賀や凪に盾になってもらったりと帆高以外の活躍が目立ち、いちばんがんばっている姿が「山手線の線路を走る」。せっかく拳銃を撃つシーンもあくまで帆高の感情の発露を象徴的に示すものであって、鮮やかな状況の打開になっているわけではない。

 「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである」という言葉はもはやオタクの教養だが、ぶっ放せば何でもいいというわけでもなかろう。

 ここまでガムシャラに突っ走ってきた帆高にとって、陽菜の救出劇は持ち前の無鉄砲を発揮できる絶好のチャンスだったはずだ。冒頭から無鉄砲は途中で更生するわけでも挫折をするわけでもなく最後まで来てしまった。ならばそのまま痛快アクション劇にすれば、主人公の個性が活きたというものである。

 それなのに帆高の活躍はいまひとつ。とうとうラストシーンまで、観客は帆高の無鉄砲さに乗ることができない。脇役のほうが光ってしまっている。

 

 ここまで無理やり「天空の城ラピュタ」をぶつけながら「天気の子」の帆高を眺めてみたが、いいたいことはただ一つ。

 「無鉄砲に駆け抜けていく帆高についていけない」

 もちろん部分的に共感できるシーンがあったり、ただ突っ走っていく姿が爽快というのはあるかもしれないが、構造的に、帆高に寄りそって物語に没入していけるようなつくりになっていない。

 

 帆高の目線で見れば、「天気の子」はセカイを見捨てて彼女を選び取る話である。

 セカイを見捨てたからといって、なにかが変わるわけではない。狂った天気はそのままひどくなっていくだけであり、人はかわらず東京にへばりついて生活している。前回の記事に記したとおり、帆高たちの行動は「良い」とか「悪い」とか評価できず、改めて評価されることすらない。

 巨大な社会からみれば子どもは非力であり、子どもの選択など無価値である。

 「この世界がこうなったのは、だから、誰のせいでもないんだ」

 こんなことばが脳裏をかすめる。

 しかし、彼らは知っている。彼らだけが知っている。

 

――違ったんだ、と、目が覚めるように僕は思う。

違った、そうじゃなかった。世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。そして僕たちは願ったんだ。世界がどんなかたちだろうとそんなこととは関係なく、ただ、ともに生きていくことを。

 

 2019年 新海誠『小説 天気の子』角川書店

 

 クライマックスでは帆高と陽菜が再会し、二人の手で世界を変えたのだと思いを確かにする。この世界が自分たちの選択の結末であるということを。晴れ空の可能性を捨てて、帆高と、陽菜と共にありたいと祈った形であるということを。

 不確かな社会に、自分たちの存在の、行為の爪痕を残したと胸を張って、二人でともに歩いていく。変わりゆく現代社会に生きる、新しい世代の少年少女の決意……。

 

 もうこのへんの心情が、全ッ然 伝わらねえのよ

 

 映画ではモノローグ入ってるし、小説には書いてあるし、アタマじゃそういう話なんだなって理解できるんだけどさ、全ッ然気持ちがついてこないのよ。

 帆高おまえ突っ走ってただけじゃん、なんも悩んでないしろくに試練もないしオッサンたちを振りのけて走ってただけじゃん。

 「自分たちで確かに選び取った」ということが大切なのに、どうしてそれを選び取ったのか、それを選び取ることがいかに大切なことなのか、という帆高の行動原理や背景がろくに見えてこない。「帆高の家出の理由が描かれていない」というのは単体ではナンセンスな批評だが、たしかに過去編でも書いておいてくれればまだわかりやすかったかもしれん。成長も葛藤も喪失もない物語ってなんなんだよ。

 「天気の子」は「君の名は。」でみられた劇的なカタルシスを生み出すことに失敗しているが、このあたりの構造上の問題が大きな要因といっていいだろう。主人公の視点で物語に寄りそうことがむずかしい以上、脇役である須賀の心情や舞台背景である貧困と犯罪の街・東京に焦点が当たりがちなのも納得である。

 

3.よし、「トゥルーエンド」ということにしよう

 ということで、「天気の子」を主人公・帆高の心情によりそって追っていこうとすると失敗に終わる。そもそもそういう造りになっていない。帆高の物語は描かれていないのだ。

 ここで選択肢は4つある。「キラキラしてきれいな映画だったね~」と脳みそを停止させるか、「感情移入できない!理解できない!」と拒絶するか、「本作は現代日本の負の側面をモチーフに取り込んでおり、~」とメッセージ性に視点を切り替えて解釈をするか。

 それとも「トゥルーエンドだった」ということにしてしまうか、である。

 

 ようするに丸投げだ。物語として必要なものが描かれていないからこっちで想像するしかない。本作において、葛藤、後悔、喪失感など、主人公のネガティブな感情や各場面での行動の意図という描かれてしかるべきものがろくに描かれていない。

 しかし、これが「何周目のエンディング説」ならきちんと補完されるのである。

 晴れた空を見上げながらこれでよかったのかとモヤモヤする気持ち。初恋の相手である陽菜が天に消える喪失感。なにもできずに島へと変える無力感。「すでに観た」エンディングであるならば、みな省略してもなんら問題ない。

 ゲームの三周目となれば途中の会話もほぼスキップボタンで飛ばしてしまうだろう。プレイヤー側も帆高とともに物語を「駆け抜けて」いるのだ。何度失敗してももう1周と次のユーザーデータを作って新たな「選択」を始める。これこそが過去の自分を乗り越えた「主人公の成長」である。

 

 「天気の子」にはすべて「正解」の選択肢を選び、「正解」のエンディングにたどりついた帆高のみ描かれており、なぜ「正解」を間違うことないのか、なぜ帆高はずっと駆け抜けているのか、が描かれていない。この違和感に「バッドエンドはもう見たから」という理屈づけは、とても都合がよいのである。

 逆をいえば、数あるバッドエンドを想像で補い前提として見なければ、前述のとおり主人公の物語としての「天気の子」は崩壊するだろう。

 そもそもの「セカイ系」的設定や、タイムラプスを多用した物語の省略表現も相まって、見事な「ゼロ年代エロゲのトゥルーエンド感」となっている。

 幻視痛のような補完だ。狙って作っているわけでもないのによくもまあニッチな層にハマるものである。

 さすがオレたちの新海誠だぜ。

 

4.「立ち止まらない少年」という空想上の生きもの

 さて、「トゥルーエンド説」は裏ワザ飛び道具なので一回忘れよう。きれいに辻褄が合うとしても所詮後付けの理屈だ。根本的な話に立ち返ろう。

 新海誠は「天気の子」でなにを描きたかったのか。

 

 答えは単純明快。ご本人が明言している通り「立ち止まらない少年」だろう。

 新海誠は「帆高が『天気なんて狂ったままでいいんだ!』と叫ぶ作品を作りたかった」といっているが、帆高らの姿は血の通った少年少女の姿というよりも、どうにも新海誠が見たいと望む「空想上の少年少女」であるようだ。

 

自分にできないことだからこそ、彼らにはそうあってほしかった。ただ真っ直ぐに走り抜けていく人たちとたどり着くその先を、僕が目撃してみたかったんです。 

 

 また、舞台挨拶では、「『君の名は。』では三葉に自分を重ねていたが、『天気の子』では須賀に自分を重ねている」という発言をしている(あと、最近老眼が始まったらしい)。

 本作のなかで、須賀は(主人公を食う勢いで)魅力的なキャラクターに仕上がっているが、これも無関係な話ではないだろう。心情描写に注ぎ込むエネルギー配分が、少年少女からオトナ世代のキャラクターへと傾きつつある(おそらくこれは新海誠の転換期の特徴になるのだろう)。

 血の通った存在ではなく、大人たちがこうあってほしいと願う、少年少女の「象徴」として描かれた帆高。これはもはや主人公なのだろうか?

 暴論だが、これまでの新海作品で帆高にいちばん近い存在は「ティアマト彗星」だと思う。どちらも世界のかたちを大きく変えてしまった存在であるが、世界を変えなくてはならない理由があったわけではない。ティアマト彗星は物理法則にしたがって地球に降り注いだまでであり、帆高は陽菜をもとめて自分の気の赴くままに駆け抜けていっただけ。結果としては災厄の元凶ではあるものの、のびのびと空を、常識のスキマを駆け抜けていく姿は、ひとびとにある種の感銘をもたらしている。善悪や因果をこえて、見るもの触れるものを大きく揺さぶる存在。

 

 その存在自体が架空なのである。チート能力だ。

 実際の人間は、だれしも悩み、迷い、間違い、さぼって、ぐだって、すぐに立ち止まる。立ち止まらないためには、パズーのように良き仲間にしっかりと励まされ、助けられながら行動をするか、暁美ほむらのように自分をズタズタに傷つけながら目標に縋りつくか、といったところだろう。

 

 「天気の子」は明け透けな現代社会批判と「セカイ」系的文脈によりさまざまな解釈と評価を得ているが、物語の根幹となる心情描写やストーリー性を備えていない。

 もしも「天気の子」の舞台が異世界だったとしたら、どのような評価を受けていただろう。その世界の常識を無視してやりたい放題に突き進んでなにかを成し遂げたとしても、それは「なろう」系異世界転生モノと何ら変わらないじゃないか。

 

 しかし、たぶん、想像なのだが、新海誠にとって「貧困と犯罪」は舞台装置にすぎないものであって、「現代社会への問題提起」とか「硬派な映画づくりへの転向」とかそういうのではないはずなのだ。

 これまでも新海誠は作品の中にさまざまな舞台装置を取り入れてきた。孤独な宇宙で戦う人型巨大兵器、並行する世界と飛行機、街を滅ぼす彗星隕石と人をつなぐ組紐、都会(を象徴するビルや電車)と田舎(を象徴する空や緑)。

 舞台装置に過ぎないそれらは案外作りこまれておらず、SF的設定やティアマト彗星の軌跡、電車の音などにネット上でツッコミが散見されるし、「天気の子」でも警察や児童相談所の描写、青少年の保護に対する手続きうんぬんの観点から今後指摘が相次ぐはずである。

 これら舞台装置は新海誠の趣味であり、興味・関心の対象であることには違いないだろうが、主題ではない。「ほしのこえ」や「君の名は。」をSF映画と呼ぶことへの違和感を想像してもらえればわかりやすいだろう。

 あくまで作品の中心は「葛藤」や「心の距離(つながり)」など、個人の心情である。

「天気の子」を見てきた当日の感想 - 星降りぬ

 

 これは、私が「天気の子」を公開すぐに映画館で観たときの感想なのだが、どうやら新海誠は本当に「現代社会への訴えかけ」をテーマに据えていたらしいと明らかとなった。現代を鋭く捉えた作品としてはメルクマーク的作品となるだろうが、時代を超える名作にはなりがたいだろう。

 今回は「メッセージ性重視の作品」ということとしても、いったい次は何を描くつもりなのだろうか。

 「ちょっとがっかり」と言わざるを得ない。

 

 

追記

 筋書きも主旨も変えないまま、グッと感情がわかりやすくなる方法がある。

 陽菜の目線をまぜてやればよいのだ。

 脇目もふらずに駆け抜けていく彼の姿勢に感化され、陽菜自身も自分のために祈っていいんだと気づく。この陽菜サイドの「社会のため→自分の信念」の変化を描けば、帆高の無鉄砲にも陽菜の心の支えとして価値がうまれる。

 なにも叫ばせたり長々モノローグを差し込んだりする必要はない。ホテルからグランドエスケープまでのあいだに、一瞬だけもういちど陽菜が社会の幸福に縛られていることをちらつかせておけば、十分に彼女の変化の暗示となる。

 もっとお手軽な方法もある。

 これも舞台挨拶で新海誠が語っていたのだが、公開された「天気の子」、実は重要なセリフがひとつ削除されているという。

 それは帆高が走りながら叫ぶ、

「あのとき、オレはどうして!!」

 というセリフだ。

 新海らの判断としては無くても通じるだろうということだったが、悪手だったと思う。これは帆高が作中ではじめて、明確に自分の判断を悔悟するセリフだったのだ。

 ふつうなら無くても後悔は読みとれるだろうが、私たちは帆高の思慮の浅さを一時間どっぷりと見せられている。だから帆高が本当に後悔しているのかはどうにも自信がもてないし、かえって「あの無鉄砲な帆高が」と観客に印象づける効果がねらえたはずだ。

 走るシーンに加えるのが蛇足なら、指輪をひろったときに呟かせておけばよい。

 「あのとき、オレはどうして......!」

 

 

 

壮大になにも起こらない「天気の子」① ~「善悪なんて尺度でオレたちは測れないぜ」編~

 「天気の子」をみて第一の感想を記してから3週間とすこし。買い忘れていたパンフレットも手に入れた。ひと安心である。

 あちこちでネタバレ全開のレビューが読めるようになった。ぜんぶを追いかける気なんてさらさらないが、目の前に流れてくるとつい読んでしまい、「あ~なるほどね」とか、「いやちがうだろ~」とか、ブツクサ言いながら腕を組んでいる。オタクなので。

 流れてきたなかのひとつがこちら。

 

note.mu

いちき「映画『天気の子』は少年と少女の間違いだらけの選択と恋、その果てを描いた子供に見せられない大傑作」(2019年8月12日取得) 

 

 これは「ラストシーン問題」に正面切って突っこんでいった正統派のレビューだろう。帆高がみずからの恋のために東京を水没させたことは、是か、非か。

 帆高の行動を「社会常識からみて」間違っているという。家出から発砲、陽菜の救出にいたるまで徹頭徹尾、帆高が「社会常識からみて」間違いつづけたがゆえに、東京水没という「社会常識からみて」間違った結末に行きついてしまった。「社会常識からみて」間違った結末を良しとする映画を夏休みに堂々と公開しているんだから、新海誠というのは恐ろしい監督である。というような趣旨である。
 新海誠が「『君の名は。』をみて怒った人をもっと怒らせてみたい」と語って世に放った本作の性格をよく捉えてた評だといえる。
 このレビューのほかに、社会常識を逸脱した主人公らの行動にお怒りのご意見から、東京を海に沈めちまうなんてスカッとしたぜ流石オレたちの新海誠、というような声まで、ラストシーンについてはいろいろな感想を見かけた。観客それぞれに訴えかけ、多様な感想を引き出せたというのは、新海誠のねらいどおりなのだろう。

 

 これに対して私はなんと感受性に乏しいことだろう、東京の水没を無感動に受け止めた。良い悪いはともかくとして、東京が海に沈んだのは当然の帰結としか思えなかった。
 ラストシーンが議論を呼ぶのは「社会常識からみて」という条件があるときに限られる。「社会常識からみて」という条件を取り去った時、帆高は、なにも、まったく、「間違い」を犯していない。もっといえば、帆高たちは、結果的に、なにもしていない。

 

 本作は、天気に干渉する能力にむしばまれた陽菜を帆高が救い、代償として東京が海に沈むという構造をとる。帆高は晴れを待ちわびるひとびとの思いを踏みにじり、陽菜への恋心を優先させた、ように見える。
 しかし舞台を整理をしてみればそんなことはない。「天気の子」の舞台は東京、雨が続いて晴れ間がないという異常が日常になってしまった東京である。ヒロイン・陽菜の晴れをもたらす能力は、ひとびとが金銭を支払ってでも手に入れたかった奇跡である。東京は、程度の差こそあれ、物語が動くまえから雨に閉ざされていたわけだ。

 新海誠がパンフレットでも述べているように、長きにわたって警告されてきた「気候変動」や「地球温暖化」は、とうとう私たちの日常となってきた。
 梅雨が明けてからの日本列島では災害級の猛暑に見舞われており、このお盆には「超」巨大台風が西日本を縦断していく。なんら対策を取らなかったら(取ったとして間に合わないだろうが)気候異常により私たちの生活はどんどん変えられてしまうだろう、というのはフィクションの話ではなく現実的な懸念事項である。

 「天気の子」の物語世界も、雨だか暑さだか、現象や程度は違えど「〇十年ぶりの」、「観測史上初の」、「昔はこうじゃなかった」が日常となった世界である。最終部では東京が海に沈むこととなってしまったが、異常な降雨が日常になったらいままでの東京じゃいられないわけで、極端な話ではあるものの、順当に予期できる結末ではなかろうか。

 むしろ特殊なのは、天気に干渉して快晴をもたらす陽菜のほうである。
 物語のなかでは、天気の巫女が太古からその身を捧げることで天気を調節してきたとされているが、これは天気を正常化する工程ではない。変わろうとする気候に介入して気持ちよい「正常」な特異点を作り出す作業である。本来の世界には人間が生活できないほど厳しい気候の土地はいくらでもあるし、逆にどれほど暮らしづらい環境でも(海に沈んだ東京にも)人間はへばりついて生活をしている。陽菜が人柱とならなかったせいで東京が異常気象に襲われたわけではない。異常気象を放置しただけだ。影響があったとして、多少進みを速めた程度だろう。

 

 気候は変わりゆくものであって、天気が異常であることは異常ではない。世界はもとから狂っている。これは作中の人物が明言しており、物語世界でもうっすらと共有されている認識である。

 例外は、東京にふった真夏の雪。あれだけは雨空が日常となった異常な東京においても異常であった。クライマックスで東京が「雪」に閉ざされた、というのであれば、帆高たちの選択が大きく世界に影響をもたらしたといえるかもしれない。だが、帆高が陽菜を奪い返しても東京は雨が続いただけ。それも、突如として津波が街を飲んだわけではなくゆっくりと海に蝕まれていくだけ。だから、せめて程度をすすめてしまったというくらい。
 そうすると帆高と陽菜は、世界に対した変化をもたらしてはいない。いったいなんの「間違い」を犯したというのだろう。誰が、どんな権限をもって彼らの行いを「間違い」と断じるのだろう。異常気象を放置しているという点では日本人の誰しもが同罪だ。帆高と陽菜だけが間違っているわけではない。

 陽菜はあのまま人柱になるべきだったのか? それとも陽菜が救われたうえで東京も救われるべきだったのか? なんの犠牲もなく異常気象がたちまちに収まるという都合のいい物語が「正しい」結末だったのか?
 大局的にみれば、異常な毎日を改変するか否かで少年少女があれこれ試み、ふとした事情からそれを途中でやめただけ。彼らが世界を「正常化」しなかったとしても誰も責めるものはいない。ただ、拳銃がゴミ箱にすてられていて、貧乏な女の子がはした金と引き換えにホテルに連れ込まれて、雨がざあざあと降り続いている、異常な東京がつづくだけである。

 

 「社会常識」という色眼鏡を外せば、「天気の子」は、壮大でありながらも、なにも起こらない物語なのである。

 では、この「社会常識という色眼鏡」にどう向き合うべきだろうか。

 新海誠は、意図的に帆高と社会常識を対決させており、背景や小道具にも毒々しいモロモロがちりばめられている。劇場に足を運んだものを刺激するために仕込んだ罠なのだから、おとなしく釣られて楽しまないのは損なのかもしれない。

 しかし困ったことに、主たる「天気の子」の視点人物は、帆高である。

 当の主人公である帆高がまったくこの「社会常識」に縛られていない。帆高は「社会常識 対 信念」というキリキリとした葛藤から「天気なんて狂ったままでいいんだ!」と叫んだわけではなく、主人公は常にまっすぐ信念に従って行動を続けているだけ。たまたま「社会常識」というジャマな壁にぶち当たり、それを全力ではねのけたまでである。

 あくまで帆高は突っ走っているだけ、一途に陽菜を想っているだけであって、「社会常識」に揺れ動くのは須賀や夏美といったオトナ側である。須賀というキャラクターは十分に魅力的で新海誠も入れ込んでいた様子であったが、帆高を中心に進んでいくストーリーにおいてはやはり脇役のひとり(障壁のひとつ)に過ぎない。


 帆高がまったくこだわりを見せていない「社会常識」に、なぜ我々ばかり固執する必要があるのだろうか? 物語はほとんど帆高を中心に語られているというのに、サイドストーリーにすぎない「オトナ側の事情」からしか「天気の子」を評価することはできないのだろうか?

 

 帆高たちの行動やショッキングなラストシーンを「善い」「悪い」でとらえるのは、自然な流れではあるものの、どうもしっくりこない気がする。主人公らの感情を無視してしまっているような気がする。もっと帆高たちの目線で物語を眺めなければならないような気がする。というのが個人的スタンスだ(別にこれ以外が悪いと言っているわけではない)。

 「天気の子」を鑑賞するうえでの立場表明みたいなものなのだが、これはあくまで前哨戦である。実際のところ、社会的な背景が強い本作を、「帆高たち目線」にこだわって鑑賞したときに何が起きるのだろうか。 

 お盆でヒマを持て余している皆様には、もうひと記事分、お付き合いねがいたい。

 

 次。 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 

「天気の子」を見てきた当日の感想

 「天気の子」を見てきたのにパンフレットを買い忘れた。

 考察オタクとしてひどい失態である。

 私は映画館からずいぶんと遠いところに住んでいるので、映画を見に行くだけでも一日がかりの旅行であって、ちょっと戻って買いに行くということができない。

 なのでこの記事は、一回見ただけの記憶を頼りにしたためた、妄想を多分に含む、答え合わせが済んでいない、そしてネタバレ全開の文章である。

 

 追記(2019年8月16日)

  一か月後の感想はこちら。こっち読んで。

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 

 「天気の子」は過去作品とくらべて、ずいぶん異色のテイストでしたね。

 代表作「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」などは自己完結的でどこか輪郭の薄い個人を描く物語であって、「君の名は。」では一歩進んだ人と人とのつながりを描いていましたけれど、「心の距離」ということばに象徴されるようにあくまで人物の内面描写に力を入れていたわけです。

 それが最新作「天気の子」では、主人公たちをとりまくやるせない現実や社会の不条理、理解し合うことができない大人と子供など、なまなましい現実世界の存在が前面に押し出されていました。

 "個人対個人" ではなく、"個人対外界" という新海誠の新しい方向性や意欲がみてとれる冒険的な作品だったかと思います。

 後述のとおり、その冒険がうまくいったとはいいがたいんですけれど、まず内容は楽しめますし、攻め続ける新海誠のこれからが楽しみに感じられる作品でした。

 

 好きなシーン。ラブホでお泊りのシーンです。

 あったかいお風呂と、ごはんと、ベッドがある。そしてなんと今日はお友達(好きな子)も一緒! たとえ場所がおかしくても、警察に追われていても、ごはんはレトルトであったとしても、明日の寝床が定かでないとしても、あの子たちにとっては楽しいお泊り会なんですよね。

 あの瞬間だけはささやかな幸せと安心感がそこにあって、無邪気にそれを楽しんでしまう。「かわいそう」な子どもたちだから、これ以上の幸福をうまく想像できないから、危うくていびつな幸せがいつまでも続きますようにと祈ってしまう。

 あの子たちの無垢で楽しそうな表情と、いまにも現実に引き戻されるであろうという緊張感と。刹那を懸命に生きるあの子たちが象徴的に描かれている、すばらしいシーンだったなと思います。

 ただね、開始すぐで占い師のオバチャンが物語のあらすじほぼほぼ喋っちゃうのはどうかと思いますよ。ラブホのベッドでの会話が「せやな」で終わっちゃうじゃないですか(笑)

  あと凪くんがかわいい。

 

 

 以上が普通の感想。

 さて、ここからは考察のオタクらしくいこう。

 見てのとおり、新海誠は「天気の子」でかなり大胆な描写に取り組んでいる。

 しかし、方向転換が大きすぎて、明らかにうまくいっていない点や、これは観客に伝わらないだろうなと予想できる点が散見される。以下ではこれらについて指摘する。

 

① 表現手法から考える「天気の子」の問題点(新海誠の課題) 

 主人公が自己のなかでもがき苦しむのではなく、社会にとびこんで奮闘し、反発しながらもがいて自分を探していく。「天気の子」にみられる新しいテイストは、新海誠がこれまで手癖としてきた表現手法と相性がひどく悪いように思われる。

 まず、映画を見始めて30分くらいから違和感を覚えた。

 いっこうに物語に引き込まれないぞ? と。

 原因は構成や演出など、いろいろな面から指摘できるのだが、ここではモノローグの問題を挙げよう。

 本作は基本的に主人公・帆高の視点で進んでおり、アニメーションに加えて帆高自身の心境を独り言ちるモノローグが随所に挟まれている。

 東京をひとりで歩いて感じたこと、やさしさに触れて心が動いたことなどを話す醍醐虎汰朗の声がどうにも邪魔に感じる。最初は演技が悪いのかと思ったが、よく考えればそれ以前の問題である。

 本来、モノローグの多用はアニメーション作品にご法度なのだ。小説でないのだから「なにをしているか」「なにを思っているか」は、キャラクターの動作や表情、会話をもって表現するのが筋である。背景や小道具などを用いても良い。

 「私、気になります!」と詰め寄るときにキラリと輝くアメジスト色の瞳は、千反田えるの心のスイッチの象徴であり、物語が動き始める予感を視聴者に与える。希美とみぞれの通じ合えない心を、表情、立ち位置、絵本による寓意、アンサンブルの音色まで用いて表現した「リズと青い鳥」はアニメーション作品の特性を最大に生かした見事な仕上がりであった。

(はぁ~~~~京アニ......)

 これまでの新海作品でモノローグが表現技法として成り立っていたのは、対外的に表出されることのない静的な感情、もしくは自分でも掴みかねている形があいまいな感情など、個人の内部を描くことに特化していたからである。起伏に乏しい感情をわかりやすく表情や動きに表出させることは難しいし、そもそも自分でも整理がついていない想いを、だれに話すでもなく、悩みながらすこしずつ言語化していくその過程の描写こそ価値がある。

 だが、「天気の子」は違うのだ。今回新海誠が描いているキャラクターは、すでに実社会のなかで生き生きと動いている。雑居ビルの片隅でうずくまる孤独や、新しい居場所を見つけて家事に奮闘する様子は十分にアニメーションで描けるものだし、実際にすでに新海誠はそれをアニメーションだけで十分に表現できていたと思う。

 しかし、そこにいつもの癖でモノローグをこまごまと挿入してしまった。無意識だったのか不安だったのか視聴者への配慮なのかはわからないが、輪郭のたしかなキャラクターや実態ある社会の描写をモノローグに頼るようでは、なろう系異世界転生アニメと何ら変わらない。本作において新海誠お得意のモノローグは、キャラクターを殺し、物語世界への没入を妨げる悪手であった。

 

 ......みたいな「天気の子」における表現のミスマッチは、とうに次のレビュー記事で的確に分析されていた。上映翌日にして良質なレビューだとおもうので、ぜひ読んでみてほしい。

 

jp.ign.com

 葛西祝「『天気の子』レビュー」 IGN JAPAN(2019年7月20日参照)

( https://jp.ign.com/tenki-no-ko/37225/review/ 

 

 モノローグ問題は上の記事より丁寧に書いてみたとはいえ、これだけだと私の文章の新規性があぶない。もうひとつ上の記事で触れられていない表現のミスマッチをあげておこう。ズバリ、緻密にキラキラと描くという新海誠渾身の絵のタッチが「天気の子」においてうまく機能していない。

 見過ごされがちなわずかな光の彩度をあげて、なんでもない公園や田舎町、薄暗い夕方や梅雨の街をドラマティックな空間に変貌させる表現は、過去作品において高く評価されており、新海誠アイデンティティのひとつともいえる。これはただ綺麗だという話ではなく、ありきたりな日常に特別な意味をあたえてくれるという点で価値がある。

 だが、悪天候が続く東京、猥雑とした歓楽街や下町が舞台となる本作において、それらを細かくキラキラと描いても意味がない。

 「雨はみんなきらいだけれど、東京はごちゃごちゃしてるけど、それはそれで良いところあるんだよ?」的な話ではないのである。

 東京にふり続く雨はひとびとにとって憂鬱で不快な存在と位置付けているのだから、キラキラではなく暗くどんよりと描かなければ雨を疎ましく思う人々の気持ちと結びつかない。新宿の裏路地だって混沌として恐ろしい場所なのだから、より汚くぐちゃぐちゃと描かねばならなかったのだ。帆高がたおしたゴミ箱の空き缶をひろう惨めなシーンでは、ボランティア的に勤しむ青年的な清潔感すらでてしまっている。

 そのうえ、陽菜がもたらす晴れの日差しと空の魚は「キラキラ緻密」で合っているのに、このとおり他がぜんぶ綺麗すぎるので、このギャップが死んでいる。空が晴れたことの喜びが伝わってこないのだ。

 「言の葉の庭」では映像を見終わったあとに、日常にあふれる光の粒すべてが美しく、いとおしく感じられるような鑑賞者の変化が起こるのに対して、「天気の子」の晴れの感動はあくまで主人公目線のものであり、物語世界から広がりを持たない。

 こんな感じで、今回新海誠が「描こうとしたもの」に対してこれまで強みとしてきた表現手法があちこちで不適合を起こしている。守りに入らず挑戦的な作品であったことはファンとして嬉しい限りだが、浮き彫りになった課題は致命的である。

 

② 「貧困と犯罪」は本作のテーマなのか?

 さてふたつめ。これは先述の記事に対するささやかな異議申し立てである。

 葛西氏は記事のなかで「天気の子」という作品を「貧困と犯罪のボーイミーツガール」と表現しているが、これはすこし危険なのではないかと思う。

 たしかに「天気の子」では、親のいない子供、家出少年、拳銃、性風俗、暴力など、現代的な社会の暗部が描かれている。夏休みの時期に上映されるアニメ映画としてはずいぶんと過激であり、本作の特徴として取り上げたい気持ちも理解できる。

 しかし、たぶん、想像なのだが、新海誠にとって「貧困と犯罪」は舞台装置にすぎないものであって、「現代社会への問題提起」とか「硬派な映画づくりへの転向」とかそういうのではないはずなのだ。

 これまでも新海誠は作品の中にさまざまな舞台装置を取り入れてきた。孤独な宇宙で戦う人型巨大兵器、並行する世界と飛行機、街を滅ぼす彗星隕石と人をつなぐ組紐、都会(を象徴するビルや電車)と田舎(を象徴する空や緑)。

 舞台装置に過ぎないそれらは案外作りこまれておらず、SF的設定やティアマト彗星の軌跡、電車の音などにネット上でツッコミが散見されるし、「天気の子」でも警察や児童相談所の描写、青少年の保護に対する手続きうんぬんの観点から今後指摘が相次ぐはずである。

 これら舞台装置は新海誠の趣味であり、興味・関心の対象であることには違いないだろうが、主題ではない。「ほしのこえ」や「君の名は。」をSF映画と呼ぶことへの違和感を想像してもらえればわかりやすいだろう。

 あくまで作品の中心は「葛藤」や「心の距離(つながり)」など、個人の心情である。

 

 「天気の子」でも中心となるものは変わらないとみるのが自然だろう。

 新海誠自身も公開当日に掲載されたインタビューでは次のように述べている。

 

――『天気の子』の主人公たちも10代です。先の見えない時代を生きる10代に対してエールを送る気持ちがあるのでしょうか。

 

 うーん、スッと簡単に説明できないことではあるんですが……。まずひとつ現状として、世の中がだんだん不自由になってきている感覚がありますよね。それは僕個人が感じている部分でもあるし、周囲でもメディアでも、日本の将来についてあまり楽観できないという話は多い。何かが、今あまりよくない方向に向かっているという感覚は、結構な数の人が共通して感じていることだと思います。でも、子どもにはその気持ちを共有してほしくないんです。

 例えば、僕らは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」と感じて、ある意味、右往左往しています。でも、今の子どもたちにとっては、それが当たり前なわけですよね。ですから「異常気象だ」なんて彼らは言わないし。『天気の子』は雨が降り続いている東京が舞台ですが、帆高も陽菜も、雨が降り続いてることについて何もネガティブなことを言わないんですよ。周りの大人たちやニュース番組はそういう話をしているんですけれど。そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました。

 

――『天気の子』は、40代の須賀や、須賀の事務所で働く大学生の夏美といった、帆高よりも年長のキャラクターによって作品世界に広がりが出ていると思いました。キャラクターの配置について、気に掛けたことはありますか?

 

 先ほど、帆高の叫びを描きたいという話をしましたけれど、その叫びってどういう叫びかというと、帆高と社会の価値観が対立したときに生まれた叫びなんです。そこを描くためには、社会に属している、あるいは属そうとしているキャラクターを描く必然性がありました。須賀や夏美もその一部です。

 大人を描くときには、岩井俊二監督がおっしゃっていたことをいつも思い出します。岩井さんは「大人っていうのは、だいたい子どもの役に立たないんだよ」って言うんです。これは本当に、そうだよなって思うんですよ(笑)。僕も子どもにとっては、役に立たない大人だし。でも自分としては須賀みたいな、役に立たない大人のほうを愛してしまう部分がありますね(笑)。

 

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟 - Yahoo!ニュース

(2019年7月20日参照、太字は引用者による)

 

 

 近年の異常気象も「今の子どもたちにとっては、それが当たり前」であり、悲観的な捉え方に「共有してほしくないんです。」と語っているが、この考え方は「貧困と犯罪」にも広げることができる。

 つまり、帆高や天野姉弟にとって東京での暮らしが汚れていること、頼りになる親族がなくて苦しいことは日常であり、当たり前のことである。帆高や天野姉弟の生活は自身らにとって決して憐憫の対象ではない。という話である。

 ラブホの風呂やサービスではしゃぐ夜は、帆高らにとって、もう大丈夫だからもう何も足さずに何も引かずに放っておいてくださいと神に祈るほど、楽しく幸せなひと時なのである(大人の目線でみれば、あっけなくて幼稚な快楽と戯れているかわいそうな子どもにしか見えないとしても)。

 また、「帆高と社会の価値観が対立したときに生まれた叫び」を描きたいのであって、社会そのもののゆがみを描きたいわけではない。この点に限って言えば、敵対キャラクターも必要上置いているだけである。

 本作における社会の冷たさや不条理感は、「主人公らへの障害の一形態」と抽象化してみておくのがよいだろう。居場所がないなかで大人たちに反発する帆高の葛藤や、帆高と陽菜の心のつながりなどが作品の中心であると考えるのが自然な流れだ。

(あれ、「天気」の設定の存在感は......?)

 

 なんだけれども、「貧困と犯罪」は、舞台装置として強すぎる。

 「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」という言葉をみるに、「貧困と犯罪」を作中に登場させたこと、舞台装置として使ったこと、少年少女から叫びを引き出す道具として使ったことは、怒られる覚悟があるようだ。

 だが、すでに葛西氏のレビューで陽菜たちの「晴れを売るビジネス」が売春の暗喩であるという考察がなされている(確かにそうすると天気の設定と合理的につながるんだよね)ように、「貧困と犯罪」が舞台装置とか映像倫理の話とかを超え、現実の犯罪や貧困とむすびつけて議論されたり、「貧困と犯罪」という観点から映画を読み解かれたりするおそれがある。

 帆高と陽菜は世界こそ変えてしまったものの、社会に生きる大人たちの在り方を変えたわけではない。これはこれで面白いポイントだが、そこだけが取り上げられてしまうことはないのか。帆高や陽菜がどのように行動していくか、青少年の目線からどのように世界と対峙していくかという、彼ら自身の物語として受け止められるのではなく、逆に、現代社会の構造や大人の都合から、帆高や陽菜の存在が定義されているのだというふうに解釈される恐れはないのだろうか。

 「天気の子」が「貧困と犯罪のボーイミーツガール」であると解釈されることは、「天気の子」ではなく「貧困と犯罪の子」として広まっていく可能性は、想定内なのだろうか。

 「じつは『大人に消費される子供たち』が今回のサブテーマです!」とかパンフレットに書いてあるのであれば、この話は杞憂である。買い忘れたので私にはわからない。もしもそこまで新海誠の計画通りなのだとしたら、「天気の子」は相当な問題作である。

 しかし、あんまり想定していなかったなら悲惨である。新海誠はいまや日本中が注目するクリエイターである。うっかり火遊びが過ぎたために、新海誠はまたしても「私の意図しない受け取り方をされた」と釈明に回ることとなるかもしれない。コミックウェーブまで炎上するなんてことは、あってはならないのだ。

 ちょっと気がかりなのだが、パンフになんか乗ってたら誰か教えてほしい。

 なんかムズムズしてきたから、自分でももう一回見に行くと思う。

 

 

(後記)

 とまあ、収まりがつかないので文章にしましたけど、私だってこんな捻くれた見かたじゃなくて、正面から作品と向き合いたいと思うんです。ただ、本作と共通性をもつであろう「星を追うこども」をまだ見てないんですよね。

 Blu-rayボックスは持ってるんですよ。

 今から見ます。

 

(追記)

  クソマジメな心配したのはバカだったんじゃないか。

 

togetter.com

 

cr.hatenablog.com

 

 ゼロ系世界エロゲ、よくわかんないんで勉強しておきます。

「君の名は。」タイトル考 ~「夢の喪失」モチーフへの再挑戦~

 もうすぐ新海誠の最新作「天気の子」が公開されるときいて焦っている。

 「君の名は。」について書こう書こうと思っていたネタを活字にすることなく、だらだらと今日まで来てしまったからだ。来たる劇場公開に備えて「君の名は。」が地上波で放映されているこの日であるが、もう「君の名は。」を語るならば今日しかない。

 なんとか「天気の子」の公開までに供養をさせてほしい。私が書いておきたいんだ。

 

 書いておきたいこと、それは「君の名は。」というタイトルについてである。

 忘れそうになるが、「名前」はこの作品においてタイトルにされるほど重要な役割を果たしてはいない。

 確かに「おまえはだれだ」や腕にかかれた「みつは」の字、「君の名前はあああああ!!」という絶叫、ラストシーンでの問いかけなど、作品の印象的な場面には「名前」が登場する。ただ、これはあくまで演出の域を出ない。

 名前を唱えることで入れ替わるわけでも、名前によって災厄がもたらされたわけでも、名前を知っていたから二人が再会を果たしたわけでもない。物語の構造や展開に「名前」ははっきりとしたかかわりを見せない。「夢」や「口噛み酒」、「ティアマト彗星」がストーリーに不可欠な要素として機能しているのに対して、「名前」の役割は極めて虚ろである。

 

 ではなぜ演出の域を出ない「名前」がこれほど強調されるのかといえば、「名前を問う」という行為が、それこそ演出として、純粋に強力だからだ。

 乱暴だが間違っていないはずである。まず、新海誠だって似たようなことを言っているのだから。

 

実は『君の名は。』というタイトルは頭から候補の中にあったんです。ただそれは有名な作品があるからっていう気持ちが大きくて、候補の上のほうに上がってこなかったんです。でも、去年の12月に東宝の今年の映画作品のラインナップの発表があるからタイトルだけでも決めなければいけなくて、もう一回脚本を読み直したんです。そうしたら、「君の名前は」ってふたりとも何度も叫ぶ訳ですよね。もう言ってる、こればっかり言っていると(笑)。

一同:(笑)。

新海:だからやっぱりこれで良いんだと思いました。タイトル先行で物語を書いた訳ではないけど、作中で何度もお互い問いあっているんです。「君の名は」で断絶してしまう個所もあれば、「君の名は」から始まる個所もあると。であるならば断絶するというところと、ここから始まる必ずしも問いではないというところから、句点を付けて少し差別化を入れました。20代以下の、場合によっては30代以下の方はこの作品で初めてこのタイトルに触れるという人も多いと思いますが。

 

全ての人たちに楽しんでもらいたい、そう思ったからこそ生まれた『君の名は。

――新海誠監督にインタビュー | アニメイトタイムズ

http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1472453958

(太字は原文ママ

  

 雑にまとめるならば、「君の名は。」というタイトルになったのは「ふたりが名前を問いあうシーンがなんども出てきて象徴的だったから」ということだ。

 もうすこし理屈っぽく攻めてみよう。なぜ何度も繰り返されるのか。なぜ象徴的なのか。「雲のむこう、約束の場所」と比較しながら「名前を問う」という行為について考えたい。

 

 三葉に会うため飛騨をおとずれた瀧は、変わり果てた糸守と三葉の死という「現実」を突き付けられてしまい、その瞬間から「夢」の世界での三葉とのつながりが断絶されてしまう。

 夢から醒めたのをきっかけに、急速に夢の世界の忘却が起こる。何かがあったはずだという確信と、どうにも思い出せないという焦燥と、漠然とした喪失感。

「三葉(瀧)の喪失」は「夢の喪失」と同義である。

 

 さて、更新がまれな本ブログのことを覚えていただけているならば、この「三葉の喪失」は以前に記した「雲のむこう、約束の場所」の構造と近いことがお分かりいただけるだろう。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

  

 「雲のむこう、約束の場所」のラストシーンでは、夢の世界に閉じ込められたサユリが現実世界で目を覚ますことで、夢の世界での感情を忘却してしまう。夢の世界でサユリは、ヒロキの存在だけを生きる希望として空虚な世界を耐えていたというのに、そのヒロキへの特別な感情がまもなく消えてしまうと悟り、恐怖し、喪失の瞬間に涙する。

 夢から醒めることで夢の世界における相手への感情をわすれ、現実世界で喪失感をあじわう。「君の名は。」のこの展開も新海誠がかねてから描いてきたモチーフの反復のひとつ、といえる。

 

 しかし、先の記事で示したとおり「夢の喪失」モチーフには重大な問題がある。きわめて感情移入をしにくいのだ。どれだけ大きな感情がそこにあったとしても最終的にはすべて忘却によって無かったことにされてしまう。掴みどころのない喪失感だけが残ってすっきりとしない。どれだけいい夢を見ても、顔を洗って髪をとかしつけているころには思い出せなくなってしまう、あの時のように。

 「雲のむこう、約束の場所」において、新海誠はこの「夢の喪失」を真っ向から映像化した。そのため当然に、この作品はなかなか共感しづらい難解な仕上がりとなっている。

 対して「君の名は。」は、明らかに「夢の喪失」モチーフを引き継いでいるものの非常にわかりやすい作品である。瀧や三葉の感情は明快で、多くの観客に共感され、受け入れられた。

 一般にこのわかりやすさは「アニメーションやキャラクターデザインが過去の作品よりも強化され、人物が生き生きと動いているから」とか「RASWIMPS の楽曲が物語とリンクして盛り上げているから」などと説明されるが、説得力に欠ける。たしかにこれらは新海誠の世界にこれまでなかった活力を与えたが、構造の問題点を根本から解消するものではない。キャラがよかろうが音楽がよかろうが、わかりにくいものはわかりにくいままである。

 

 ではなにが「君の名は。」を明快な作品としているのかといえば、まさしく「名前を問う」という行為の力だと考える。

 「雲のむこう、約束の場所」での「夢の喪失」は、目が覚める寸前までのサユリの独白と、目覚めた直後のサユリの涙で表現された。しかし前述のとおり、これではヒロキやわれわれ観客には、「夢」を共有できない「現実」の人間には、伝わらない感情である。

 「大丈夫だよ、目が覚めたんだから。これからぜんぶ、また。」というヒロキのセリフも、冷めた目で見れば、サユリに寄り添えていない素っ頓狂な発言である(「夢の喪失」モチーフの構造的問題点に忠実であるからこその無理解である)。

 

 これが「君の名は。」では、こうなる。

「あの人は誰?」

「忘れたくない人」

「忘れたくなかった人」

「忘れちゃダメな人」

「君の名前は?」

「なまえはあああああ!!!!!」

 

 「夢の喪失」はあまりにも急速である。だからそこに含まれる「関係の喪失」や「感情の喪失」のように不定形なものを、ゆっくりはっきり伝えるすべはない。

 これに対して「名前を問う」という行為は鮮やかだ。

 自分がなにを忘れたのかはうまく表現できない。それにどのような名称がついていたのかも思い出せない。だが、そこに「名前」があったことだけは確かとなる。

 名前を忘れるというのは、逆にいえば忘却しかけている存在に名前があったということ、つまり、その存在があいまいで不定形なものでなく、単語によって他と峻別して認識されていたという事実を呈示する。名前の喪失は「漠然とした喪失」ではなく「確乎とした喪失」となるのだ。

 永遠にその喪失感を覚えていられるわけではなく、事実、瀧や三葉も大人になる頃には「ただ、何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも、長く、残る」という「漠然とした喪失」に移行してしまうわけだが、すくなくともあの瞬間だけは、あの瞬間にたしかに存在していた強い喪失感には、「名前」というカタチが与えられるのだ。

 また、思い出せない名前が事物ではなく「相手の名前」であったというのも効果的である。

 「名前」はその人の存在をそのものとして表現するものであり、それが思い出せないというのは人間関係やコミュニケーションにおいて致命的である。たとえ親しい人間でなくても、会ったことがある人間の名前を思い出せないというのはどうにも気まずいものであり、必死に思い出そうとするのも無理がない。まして、大切だったはずの人間の名前を思い出せないというのは、危機的状況である。名前を思い出せないときの切迫感は、非常に共感しやすいだろう。

 

 要するに、新海誠は「雲のむこう、約束の場所」で伝達を放棄した「夢の世界の喪失」を「名前の喪失」に置き換えることで、夢でのつながりの失った瀧と三葉の焦燥を、万人が共感しうる感情たらしめることに成功したのである。

 「君の名は。」は、新海誠の、過去のモチーフへの再挑戦である。

 バッドエンドと誤認された「秒速5センチメートル」のモチーフにリベンジし、明確な再出発の描写を加えたことで後味よい作品にしあげたように、「雲のむこう、約束の場所」で難解なままとなった感情の切迫を、名前を求めて問うという行為に込めることでモチーフの構造的問題点を克服し、みごと「夢の喪失」を大衆に理解させたのであった。

 

 と、いうように「君の名は。」と名前を問う行為には、作品に普遍性を与えて世に訴える力がある。ひとつの演出として鑑賞者目線で文章をまとめたが、瀧や三葉にとっても、ゆびのすき間からすり抜けていく互いの存在をなんとか留めるための、あとかたもなく消えたなにかのかたちを確かめるための、この作品を印象づける切実な行動である。

 「君の名は。」というタイトルは、本作品にふさわしいものといえるだろう。

 

 

 

追記 ①

 こう見ると、逆に二人がつながりを失う前の「名前」の扱いがおもしろいですね。

 たとえば、本作の前半、ふたりが夢の中で頻繁に入れ替わっているころ、RADWIMPSの「前前前世」が物語を加速させるころに、瀧が三葉のノートに書いた

「 お ま え は だ れ だ ? 」

 いちおうこれも「名前を問う」行為であって、三葉は瀧の腕に「 み つ は 」と書き込んで応答するんですけど、この場はそれっきり。その後もなんどか入れ替わりが起こっているものの、ここで「名前」を得たことで二人の関係が変わるわけではありません。

 名前や社会的地位、所属集団などを介さずとも心身が深く結ばれた「あの男(女)はああああ!!」の関係です。

 名前以前に、互いの身体、人間関係、生活という、通常ならば絶対に手に入れることがないものを共有しているわけですから、いまさら「瀧くん」「三葉」なんて名前を呼ばう必要がないのです。

 

 

追記 ②

 「名前を問う」演出の多大な効果を前にして些末な話ですが、ささやかな批判を。やっぱり物語の筋とノータッチすぎだと思うんですよね。

 名前を問う描写を反復するわりにはその必要性がない。特に最後の「「君の名前は」」はあまりにもわざとらしい。

 新海監督は先に挙げたインタビューで、新しい関係の始まりを表現したかった的なことを述べていますが、どうもテクにはしった感がしますね。

 

 

追記 ③

 

 

 

「会話劇」その先へ ~省略するゆゆ式~

 きらら2月号のゆゆ式面白かったです三上先生すみませんでしたって記事。発売から一か月がたち、3月号も出るころなので書こうと思う。

(ということで、単行本派の人はネタバレ注意です。最新10巻にも載ってません。ブラウザ閉じてください。)

追記:11巻出たな? さあ読め。

 

 前回の記事で、唯ちゃんの大声ツッコミなどゆゆ式トークの展開にパターン化の気配がみられる、という話をした。これはお互いを笑わせようとする「会話劇」の技巧的な発達であってネタの安定感が増す反面、ふつうの「会話」としては自然ではなく、さらには展開のマンネリ化にもつながる危なっかしい兆候である、という趣旨である。

 

 もっとも、だからゆゆ式はつまらなくなった、という話がしたかったわけではない。たしかに先の問題はマンネリ化につながりかねないが、それでも「会話劇」はおもしろいし、そのほかにもゆゆ式にはまだいくらでも広げる余地があるから、直ちにマンネリ化することもない。

 実際ゆゆ式は情報処理部の外へも広がりを見せている。相川組とどんなコミュニケーションをしていくのか、とか、おかーさん先生やモブから見た情報処理部の3人はどうなのか、とか。または、積極的迷子回やIMAX映画回、ハンバーグ回などのプチイベントでは素直な反応やふだんは聞けない言葉が出てくることもある。いよいよマンネリ化が避けられないようであれば、三年生になってしまえばよい。まだまだゆゆ式には楽しみがある。

 ただ、情報処理部の描き方としては、もう発展の余地はないと思っていた。3人はいつでも互いを満足させ、楽しく笑い合える会話ができるようになったのだから、これで完成。料理番組の展開は固定的であって、なにを調理するか、どう捌くか、だけが関心になるのと同様、ゆずこが持ってきたネタを調理し、唯ちゃんがツッコミで味付けしつつ、縁がおいしそうに食べる。これ以上は望むところはないと思っていた。コミュニケーションの円熟。かといって「会話劇」は彼女らにとっての日常になってしまったのだからなくすという選択肢もない。もう情報処理部を描くには外に広げるほかない。そう感じていた。

 だから(不躾にも)あんな否定的なニュアンスで記事を書いてみたのである。

 

 ところがどっこい、2月号がめちゃんこ面白かった。そして度肝をぬかれた。

 まさかの「会話劇」全スキップ。しなかったのではなく、きっちり「会話劇」を完成させたうえでまるまる省略。こちょばす方に持っていくゆずこの機知・努力・執念が全カット。我々読者には、壮絶な「会話劇」の残り香だけが示される。だけど面白い。もうびっくり。

 きらら日常系マンガは、キャラクターの会話が中心となるため、叙述のスピード(展開のはやさ。物語時間の流れ)は遅めである。ゆゆ式は縦の4コマにとらわれず会話が進むのでその傾向は顕著だ。連続的に叙述が進むなかで唐突に現れる省略は、読者を強くゆさぶる。

 さっきまでは普通に話していたのに、つぎのコマではいきなり唯ちゃんがベッドの上に退避、ゆずこが息を切らしている。「ね…結局…、どんあ話をしても…、こちょばす方に…、もってったでしょ…」のセリフで、時の流れにギャップがあることに気づかされる。「サバンナからのもっていき方、よくなかった?」っていったいどんな会話をしたんだよ。しかしその仔細が語られることはない。読者は「会話劇」前後のギャップのみを味わうことになる。

 省略法自体はゆゆ式でもたびたび用いられている。唯ちゃんがゆずこを殴るとき、殴るに至ったゆずこの失言と唯ちゃんの鉄拳制裁は描かず、これから殴られるであろうという予感と、案の定殴られたというゆずこの反応だけを描く、アレだ。

 しかし「会話劇」はここ5年のゆゆ式において屋台骨といっても過言ではなかろう。それを全部端折った。ふつうはありえない作りである。これがほかのマンガであったならば「ああ、作者はネタを思いつかなかったんだな」と醒めてしまいそうだが、2月号のゆゆ式はそれを感じさせない。きっとコマとコマの間にはすさまじいやり取りがあったに違いない、絶対面白かったはずだ、という確信がある。ゆゆ式だからこそ許される芸当である。正確に言えば、これまでに「会話劇」を磨いてきた情報処理部への信頼があるからこそ。巧みな言葉遊びで互いを笑わせ合っている毎日がそこにあるという安心感があるからこそ。そんな3人を10年間描いてきたゆゆ式だからこそ、である。

 

 「会話劇」に執着すると展開がマンネリになる虞れがあるほか、言葉遊びに終始して3人の人間関係そのものの描写がなおざりになるという問題がある。しかしきらら2月号のゆゆ式では「会話劇」をカットしたがゆえに、唯ちゃんの素直になれない照れやゆずこの唯ちゃんいじりへの執念、その後の他愛のないちょっかいと笑いがより鮮明になっている。

 さすがに省略法は飛び道具なので頻繁には使えないだろうが、ゆゆ式の可能性を感じるには十分である。

 11年目の情報処理部にも目が離せないな、と反省のしきりです。

 

 さて、3月号が楽しみ。日本海側は金曜から雪に閉ざされていて外に出れなかったんですけど、明日買ってきますね。

 

『ツッコまねば』という強迫観念 ~ 「女子高生の日常」を放棄した情報処理部 ~

 前回の記事では、ゆゆ式情報処理部の3人が意識的に「軽快で楽しい会話劇」を作り出している、それによって情報処理部の3人は「楽しくない」状況を積極的に回避している、ということを書いた。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 この記事では、「楽しく」あろうとする3人の姿勢をあたかも固定的なゆゆ式の性質のように書いたが、もう少し掘り下げてまとめたい。

 

 彼女らが避けようとしている状況については、紅茶氏の次の記事がわかりやすい。

monochromeclips.hatenablog.com

 

 紅茶氏は、情報処理部3人にとっての一番のディスコミュニケーションをこの「天使が通り過ぎる」こと、または「不慮の事故的な沈黙」と表現した。

 

いや、つまり。

「天使が通り過ぎるのを防ぎたい」んじゃないか、という話でして。

展開していくなかで再三言及されていた「コミュニケーション不全」というのは。

コミュニケーション不全を起こしたくない、という見えない力場の下にある以上。

逆説的に存在しないのではないか、と考えるのです。

正確には、連載初期を中心に。ふとしたきっかけで。

コミュニケーション不全に近い状況が生じているのは確かでしょう。

しかし、それを嫌うからこそ冗談としてそれを消化でき。

巻を重ねるにつれそれが洗練されていく、と解釈出来なくもないわけです。

(中略)

――で、「天使の門番」の話なのですが。

要は本当の意味で不慮の事故的な沈黙が。

彼女たちにとって一番のディスコミュニケーションなのじゃないかな、と。

紅茶 「『ゆゆ式と常識』の方式、という名を借りた戯言」『灰色の日々』

https://monochromeclips.hatenablog.com/entry/2018/12/26/235658 (2019年1月5日取得)

 

 「天使が通る」というのはフランス語の諺であり、ふと会話が途切れて場に沈黙が流れることを表わす*1。ふと会話が途切れて場に沈黙が流れるというのは、日常において決して特別な状況ではない。拾いにくいトークを投げてしまった、互いの感覚にずれがあり瞬時に答えられなかった、怒ったり悲しんだりと感情的になっている、もしくは単に話の種が尽きた。そして初期のゆゆ式のにおいても「天使が通る」タイプのディスコミュニケーションは大なり小なり見ることができた。

 ただ、情報処理部の3人はこれを嫌ったようである。5巻以降の情報処理部は自然体で散発的な言動をとるのをやめ、互いを楽しませるために「会話劇」とでも呼ぶべき技巧的な会話を見せるようになる。親友同士で日常をより高度に楽しむための、楽しいという気持ちへの不安定要素を排斥するための術である。

 しかし立ち返れば、技巧的な会話というのは「日常的」ではない。等身大の女子高生を描いていると評されたゆゆ式は、強みであるトークに歪みを抱えることとなった。

 

 顕著なのが、唯ちゃんのツッコミの変質である。

 彼女は作品に一貫してツッコミの役目を果たすが、そもそも彼女は「シャイ」である。1~4巻ではあきれまじりに、もしくは真顔でバッサリとゆずこのボケ(奇行?)捌くパターンが多く、意外かもしれないが大声でツッコむという描写はまずみられない。大声を出すとしたら下*2のように恥ずかしがって声が大きくなってしまう場合である。

 

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 もしくはこんなかんじ*3で、激しいボケ・ツッコみの応酬についテンパってしまったとき。

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 こういった状況ならば、まあ大きな声出しちゃうこともあるよなと理解に難くない。しかし、これが5巻ごろから様変わりする。次の画像はゆゆ式7巻よりp.33。

 

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 ご覧の通りゆずこのボケに対して唯ちゃんがものすごい勢いでツッコんでいる。周りに同級生がいるであろう教室で、恥ずかしげもなく大声を出している。この回最初のネタであるため会話の流れはわからないが、かといってド直球の下ネタというわけでもないし、ボケの連撃に翻弄されてパニクっているわけでもなく、つい大声を出してしまった、と考えられるような文脈が見られない。

 女子高生の「日常的な」会話に、このようなツッコミの必要性が感じられない。しかし5巻以降のゆゆ式では唯ちゃんの叫ぶタイプのツッコミが当たり前のように繰り返される。

 

 なぜ唯ちゃんがこのように振舞っているのかといえば、大声で勢いよく突っ込めばネタがひとつ成立するからである。

 ゆずこが無茶ぶりなボケをするのはいつものことだが、縁がほとんどツッコまない以上、これを拾うのは唯ちゃんの役割となる。もちろん拾わずに流したりバッサリ斬って捨ててもよいのだけれど、それをすると会話のテンポが悪くなる。ネタを生かすも殺すも唯ちゃんの一声にかかっているのだ。

 先ほどのページをもう一度見てみよう。わずか2コマでネタが成立している。すごい。ゆずこの突拍子なもしも話に間髪入れずツッコんでいる。しかもきちんとドレッシングをかけられるもの繫がりで返していて「ドレッシングかけるってなんだよ」などよりもずっと巧妙だ。そしてなにより早さと勢い。さすがに食い気味の「サラダかっ!」はゆずこの予想以上のツッコミだったのか耐え切れずに笑いだしている。

 より素早く、より巧妙に、より劇的に。会話劇をより楽しく盛り上げようとすればするほど、ツッコミは芝居がかったものとなる。自然体で振舞うことをやめた唯ちゃんの叫び声型ツッコミには「ツッコまねば」という強迫的な意思が見え隠れする。

 ゆゆ式を追い続けてきた我々は、もしかしたら違和感を持たないだろう。いつもの展開であるし、人によっては無茶ぶりにもきちんとツッコんでくれる唯ちゃんに対するゆずこの信頼の厚さや即座に会話劇をこしらえることができる情報処理部のコミュニケーションの円熟を感じ取るかもしれない。

 だが、女子高生の「日常的な」会話としては無理があるのだ。

 

 なお「会話劇」と作り出すことによる歪みは、ゆずこのボケ方にも表れている。8巻あたりをめくってみると面白いのだが、日常の会話の中から広げていくのではなく、「たとえば○○だったらどうする?」などの仮定形のネタが目につく。

 

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 順にゆゆ式8巻より、p.33, 49.。あえて扉絵をカットせずに引用したのでわかりやすいと思うが、各話の1コマ目から唐突に架空の想定を投げかけている。このほか「博士号を取りたい」とか「ワッフル落ちてこないかな」も8巻あたりである。

 偶発的な現実からネタを探して地道に膨らませるよりも、いっそ最初から「もしも」とありえない切り出しで始めたほうが会話劇を作り出しやすいのだろうか。

 

 以上のような状況を好意的に捉えれば、三人の会話に磨きがかかってハイコンテクストな次元に到達している、といえるだろう。一方、悪意をもって捉えれば「楽しくしなければ」、特に唯ちゃんに関しては「シャイ」という自身のキャラクターを捻じ曲げるほどの強迫的コミュニケーションが行われている、ともいえる。

 

 ゆずこがボケて、唯ちゃんがツッコみ、縁が笑う。この日常の女子高生離れした状況を3人は自身らの「日常」として選び取ったのである。

 

 

おまけ

 

 今回書いたことはずっと前から思っていたことだけれど、この度まとめようと思い立ったのは紅茶氏の記事に触発されてのことである。ぶん投げたものを勝手に拾って言いたい放題に騒ぎ、都合よく記事の引用までしちゃいました。感謝とお詫びを。

 また、「不敬罪」のところではこんな失礼な書き方をしているが、ゆゆ式を悪く言うつもりはない。むしろやっぱ三上先生すごいなと見直している。

 というのも、唯ちゃんのツッコミが激しくなったところで「ゆゆ式」という作品が崩壊することはないのだ。あくまで彼女らは互いを笑わせて楽しく過ごしたいだけ、2年生に進級して信頼も深まったゆえに会話劇が巧妙になっただけ、でいいのだ。あの3人の会話は、常識的でも日常的でも現実的でもないが、作品としてのビリーバビリティはいまだ損なわれていない。

 さらに蛇足だが、ゆゆ式オタクの多くは別にこのような情報処理部のコミュニケーションの変質に違和感を持っていない。ゆゆ式オタクは情報処理部の"common sense" に順応しているし、順応させられているし、三上小又は読者を順応させるだけの世界観(部室感?)を描いている。やっぱすごいと思う。

 

ゆゆ式における「敵」とはなにか ~ 情報処理部の弛まぬ努力について ~

 今年も“ゆゆ式 Advent Calendar 2018” が面白い。

adventar.org

 ゆゆ式10周年展と時期を同じくして始まったクリスマスへのカウントダウン。カレンダーが全マス埋まっているだけでも多くの人に愛されているという事実と活気が感じられて嬉しくなりますね。そして毎日が楽しい。一日ひとつずつゆゆ式のファンアートが増えたりゆゆ式の研究が深まったりする。嬉しい。

 毎年組んでくださってるえすじさん本当にありがとうございます。

 

 さて、そのカレンダーのなかに評論系が2~3みられた。読みながら「ゆゆ式語りたい欲」がむらむらと昂ってしまったので、勝手にこれら記事に乗っかりながらて吐き出したい。

 

 まず読んだのは、「ゆゆ式 Advent Calendar」より10日目、駅前ブラブラ氏の「なぜゆゆ式は神話なのか」である。

blog.livedoor.jp

 

 ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』については未読なのでよくわからないが、ゆゆ式にナラトロジカルな観点を持ち込んで分析しているところが興味深い。

 

 唐突だが、ゆゆ式のテーマとは何だろうか?

 多くの人は「日常は尊い」とか「女の子はただ楽しみたいだけ」とか「シビアでリアルな人間関係」とか「イベントなくとも、楽しい毎日。」などと答えるだろう。 本記事では「イベントなくとも、楽しい毎日。」がテーマだと仮定して、一般的な物語論を当てはめてみよう。

 まず、テーマからゆずこたちの欲望を抜き出す。 この場合の欲望は「楽しい日常」で問題ないだろう。

 物語の王道に従えば「敵」が現れるはずだ。そして「敵」は欲望が満たされるのを邪魔とする。この法則は日常作品であっても例外ではない。

 

駅前ブラブラ「なぜゆゆ式は神話なのか」『ゆるブログと行こう♪』

http://blog.livedoor.jp/yuyustudy/archives/14127338.html (2018年12月23日取得)

 

 

 駅前スマブラブラ氏は考察にあたり、2つの仮定を置いている。

ゆゆ式のテーマは「イベントがなくても、楽しい毎日。」である。

② 物語の王道に従えば、欲望の充足を阻害する「敵」が出現する。

 

 そのうえで、ゆゆ式には「楽しい日常」を脅かす「敵」は認められない、戦争やゾンビ、廃部の危機や人物同士のケンカがないことがゆゆ式の特異性だ、と述べている。

 この考察自体は齟齬を孕むものではないものの、看過しがたい疑念が残る。それは「敵」概念をごく限定的に適用しているのではないか、という疑問である。

 

 『神話の力』における議論がよくわからないので多少ずれるかもしれないが、童話から今日のサブカルに至るまで、「敵」を据えながら物語を進めていくというクリシェの存在は理論的にも直感的にも理解し得るものである。 

 駅前スマブラブラ氏の仮定によれば、「敵」は欲望の充足を阻害する存在である。今回の場合、「イベントがなくても、楽しい毎日。」が過ごせなくなる要因が「敵」とみなされるだろう。

 ここにおいて、駅前スマブラブラ氏は「楽しい日常」の阻害要因を戦争や外敵、ケンカなど、外的ないし特殊な事象に求めている。平和な日常を壊すのが「敵」というといかにもなイメージである。

 しかし、「楽しい日常」の阻害要因はこれだけではない。ゆゆ式は情報処理部の三人を中心とした軽妙な会話劇や登場人物コミュニティ内の交流を中心に「楽しい日常」を描いている。これらが成立しない状況は外的要因以外にもいくらでも考えられる。ネタが滑りつづける、会話が薄くなる、相手に嫌悪感を持つ、などなど。これらはゆゆ式的ではない。十二分にゆゆ式の「敵」と呼ぶことができるのではないのだろうか。

 

 簡潔にいうと、ゆゆ式の「敵」は「楽しくないこと」である。唯・縁・ゆずこのだれかがつまらなそうにしていたり、怒っていたり、悲しんでいることには耐えられない。常に明るく楽しい日常でありたい。このように彼女らの願いと「敵」を仮定すると、面白い視座を得ることができる。

 

 これもまた「ゆゆ式 Advent Calendar 2018」より16日目、紅茶氏の考察「ゆゆ式と常識」である。紅茶氏はあんな規格外なマンガをつかまえて「ゆゆ式は常識的である」という主張を打ち出している。

monochromeclips.hatenablog.com

 

 さて、まず最初に先に挙げた二作品の中からあるシーンを抽出します。一つは、あずまんがの別荘回でともちゃんこと滝野智が鍵を茂みに投げ捨てるシーン。もう一つは、きんモザのアリス誕生日回でシノこと大宮忍がプレゼントとして庭の石をあげるシーン。もう皆さんお気づきのことかとは思われますが、要するにゆゆ式にはこういった「友達であっても理解に苦しむ、最悪の場合喧嘩になる言動がギャグとして消費されていない」という点において常識的だ、ととるわけです。

(中略)

 これは三人の会話がそれそのものをネタとして楽しんでいる、筋書きによらない会話劇が成立しているという性質によるところが大きいと思われます。つまり、コミュニティ内においてcommon senseとしての常識が確立されているのです。

紅茶「ゆゆ式 Advent Calendar 2018 16日目:ゆゆ式と常識 」『灰色の日々』

https://monochromeclips.hatenablog.com/entry/2018/12/16/235052 (2018年12月23日取得)

  

 既にあるとおり、紅茶氏のいう「常識」とはマンガとしての修辞や筋書きの問題ではない。登場人物コミュニティ内で起こる会話の性質について指摘するものである。

 不勉強にてあずまんが大王はよくわからないが、確かに『きんいろモザイク』の大宮忍はときおり異常な行動を見せる。上の例も然り、金髪への執着も然り、アリスからのプレゼントを捨てかけたこともあった気がする。似たようなキャラでは『ご注文はうさぎですか?』ココアなども大概だろう。彼女らの行動は登場人物コミュニティからも読者からも理解されないコミュニケーション不全を作り出している。だからといって彼女らがコミュニティから疎外されることはあまりない。「そういうキャラ」として許されている。

 「そういうキャラ」というのは突飛な彼女らに限る話ではない。同じくきんモザごちうさで言うならば、アヤヤ/リゼはクールぶってるけどいざというときに赤面して慌てるキャラ、アリス/千夜はほんわかした性格でありながら周囲とずれたひと言を放り込んでくるキャラ。キャラクター毎に「そういうキャラ」が定められており、「そういうキャラ」同士がコミュニティ内でどのような化学反応を起こすかをネタにして楽しむ。あの手のマンガは、キャラ属性を推進力にしてコマを進めている。

 推進力で言えば、ほかに『ゆるキャン△』のキャンプ、『少女終末旅行』のポストアポカリプスのようにテーマを推進力とする例、もちろん廃校の危機を救うべく奮闘する『ガールズ&パンツァー』のようなストーリーを推進力とする例もあるだろう。

 

 さて、『ゆゆ式』にはストーリーもテーマも先天的なキャラ属性も与えられていない。何を推進力としてコマを進めるのかといえば、それは紛れもなく「楽しい日常」を過ごそうとする情報処理部3人の弛まぬ努力である。

 

 かつて、関係者の言葉を拡大解釈して「ゆゆ式は自然体だから良い」などとする言説が流行ったことがあったが、これは誤りだ。露骨な反証例を挙げれば次の二つである。

 

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 ともに『ゆゆ式』5巻から順にp.26, 30 である。このように各人の思考が読み取れるコマは非常に興味深い。見て明らかだが両方とも前の会話をふまえて、次の会話を検討し、場が盛り上がるよう最良の選択をしようと判断を下すという思考の流れが描かれている。つまりここから、情報処理部の巧みな会話劇は偶発的/自然の現象ではなく、すくなくともある程度は意図的に、そうしようという選択の結果として実現されたものだと考えることができる。

 この2場面だけじゃないか? と言われても困るので念のためほかにも挙げておこう。いずれもゆずこのセリフであるが、いずれも先と同様に3人が互いの反応をうかがいつつどう会話劇を進めていくか計算している様子がうかがえる。彼女らは日頃からこのような計算を積み重ねているのだろう。

 

「はー唯ちゃんは欲しい返しをくれるな」(5巻, p. 52)

「…がんばってふくらませた方がいい?」(6巻, p. 94)

「詰めると思わせて詰めない私のすごさね」(6巻p. 103)

 

 ゆずこのボケを唯が突っ込み、縁が笑ったり乗っかったりして会話劇を盛り立てる。ほかの2人を笑わせるために必死になって考えている。まるで漫才師だ。彼女たちはみずからネタを発見し、”common sense” のなかで調整して、会話劇を完成させるという流れを作品中に作り出し、所与の条件に頼らずしてマンガを推進させている。

 この点でゆゆ式は特異なマンガである、ということができるのではないだろうか。

 

 『イベントがなくても、楽しい毎日。』というのは、安穏と3人に与えられたテーマではない。不断の努力によって勝ち取られ、維持されていくものである。

 そのとき、情報処理部の3人は「楽しくないという敵」を積極的に回避している、もしくは積極的に会話を盛り上げることによって「楽しくないという敵」を克服している、と見ることができるのではないだろうか。

 

 

 

追記

 言いたいことは以上だが、現時点で見えている検討すべき点をいくつか。

① いつもいつも「ネタ」を作ってるわけじゃないでしょ?言いすぎじゃない?

② 「ネタ」を意識的に作ってるとわかる例が5巻あたりに固まってるけど?

③ というか「楽しく過ごす」と「ネタを作る」を整理せずにごっちゃに使ってない?

④ 情報処理部以外の4人はどうなるの?

 

 紅茶氏も先のブログやツイッターでこの辺りに言及していたし、私としてももういっこ記事書ける。上記の点に踏み込むには情報処理部と相ちゃん組のコミュニティの比較や『ゆゆ式』自体の変質について語らねばならないだろう。上では「ゆゆ式は自然体」論をぶった切ったものの、1巻を中心にたしかに3人が全くの自然体で過ごしていた時間もなくはなかったのである。それが徐々に、特に5巻前後から彼女らの会話劇に変化が現れるのだ。

 時間があったら詳しく書きたい。

 時間があったら。