星降りぬ

書かねば。

「雲のむこう、約束の場所」ラストシーンについての考察

  「君の名は。」の大ブームを記念して、「雲のむこう、約束の場所」が駅前のちっちゃな劇場でリバイバル上映されると知ったとき、私は、半分この作品を銀幕で見れることに興奮しつつ、もうはんぶんは雪辱を果たす気分で、意気揚々とチケットを買った。

 と、いうのも、それまでこの作品をよく理解できていなかったのだ。例のごとくきれいな映像と、しっとりとしたモノローグが延々と続き、状況は転々と変わるものの、次の瞬間には唐突に幕切れ。秒速や言の葉の庭だってお世辞にもわかりやすい筋書きとはいえないが、この作品はそれにもまして掴みどころがない。はじめて見たのは3、4年くらい前のことだったかと思うが、私はさぞマヌケな顔でスタッフロールを眺めていたことだろう。

 だからじっくりと見なおす機会を待ち望んでいたのだ。

 

 そして、改めて観て、思ったことがある。

 

 この作品、やっべぇぞ。

 

 この作品がというか、新海誠のアタマがというか、とりあえずコイツはやばい。以下には、この「雲のむこう、約束の場所」のやばさについて、まとめてみよう。結論から言うと、私は、この作品のオチは、ニンゲンの理解の範疇を超えていると考えている。

 

 ざっとあらすじを書く。

 本作品の主人公、ヒロキ(藤沢浩紀)と友人のタクヤ(白川拓也)は、海峡を挟んだ敵国にそびえる謎の巨塔に強いあこがれを抱き、独学で飛行機「ヴェラシーラ」の製作を進めていた。この企みはひょんなことから浩紀が思いを寄せる同級生、サユリ(沢渡佐由里)にもばれてしまう。三人は未完成の白い飛行機と、はるか遠くの天蓋を貫く巨塔を前に、いつかあの塔まで飛ぼうと約束をする。

 それと前後して、サユリはふしぎな夢を見るようになった。それは、もしかしたらあったかもしれない、別の選択肢をたどった宇宙、いわば「並行宇宙」で彼女ひとりが彷徨っている夢である。夢はしだいに身体を蝕み、ついに彼女は眠り続けたまま目覚めることなく、意識は「並行宇宙の夢」に閉じ込められてしまう。

 サユリの身体は、ヒロキとタクヤに知らされることなく東京の大病院に搬送され、そのショックから二人はヴェラシーラを完成させないままに別々の道をたどりはじめた。しかし、サユリと「並行宇宙」、そして謎の巨塔のつながりが明らかになると、二人は数年の時を経て再びヴェラシーラの仕上げに取りかかる。すべてはあの日の約束を果たすために。サユリの身体を塔のもとへと届け、彼女を目覚めさせるために。

 

 ……だいたいこんなかんじ?細かい設定抜けてるけど、べつにいいよね?

 まずもって、舞台設定が既にムズカシイ。

 なに? 「並行宇宙」って。ユニオン? 南北分断? 開戦? 謎の物理学者エクスン・ツキノエ? 「彼女を救うか、世界を救うか」????

 初めて見たうちには、このあたりの設定を飲み込むだけで脳ミソの大部分を持っていかれるだろう。すくなくとも私はそうだった。

 しかし、目的を「オチを理解する」だけに絞るならば、これら雑多な設定、

 すべて不要である。

 大切なのは、次の四点のみである。

①ヒロキとサユリは前々からとても親しい関係にあった。

②サユリは、夢の世界にひとり閉じ込められている。

③ほんの断片的だが、ヒロキとサユリは夢の世界のなかで接触を果たしている。

④サユリの身体を塔に届けることで、彼女は夢から解放されて目覚めることができる。

これだけだ。

 まず①だが、ヒロキは明らかにサユリへ片思いをしており、サユリもヒロキに対しては好意的に接している。たぶん放っといてもくっつくレベル。②は文字通り。細かい設定は置いておこう。

 特に大切なのは、③だ。夢の世界にとらわれたサユリは、孤独と恐怖に苛まれながらも、記憶の中のヒロキの存在と、ヴェラシーラで塔まで飛ぶという約束を心の支えにしてひたすら耐え続けていた。この彼女の想いが呼び寄せるのか、ヒロキもうたた寝をした瞬間に彼女がいる夢の世界を共有することができた。ただしそのつながりが微弱なためか、またはヒロキが途中で目覚めてしまうためか、互いの気配を感じながらもなかなか巡り合うことができない。探し、求めあいながらも、あと少しのところで切れてしまう、もどかしい時間が続く。ヒロキの心も、もともとサユリの失踪が刺さっていたためか、いつしかこの「サユリがいる世界」の夢に引きずられてしまうようになっていた。

 簡単にいえば、「ヒロキとサユリは現実世界でまったく接点を持たないまま、夢の世界では互いをつよく求めあう関係になっていた」ということである。サユリにとってヒロキとの約束は、虚無の世界に残された唯一の希望であったし、ヒロキからしてみれば「世界の中心」と形容するまでに入れ込んでいて、しかも苦い青春の象徴にもなってしまったかつての片思い相手が毎晩枕元に立つわけである。心に占めるお互いの存在がどれほどの大きさに膨れ上がったか、まったくもって想像がつかない。

 これは現実的、肉体的には一切接触のない、精神純度100パーセントの恋愛感情だ。秒速5センチメートルでも似たようなことを書いた記憶があるが、こんな感情を表現するに「恋愛」などという凡庸な表現では少々役不足だろう。「崇拝」、「精神汚染」、「信仰」、「依存」、こんな、おどろおどろしい言葉のほうが、かえって似あうかもしれない。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 サユリの病変のおかげで二人の関係は尋常ならざる特別なものとなってしまったわけだが、あくまでこれは、夢限定の話である。夢からはいつか目覚めなければならない。

 

 さて、ここからが本題なのだ

 みなさまは「すっごくいい夢を見ていたはずなんだけれども、目覚めたらなにが楽しかったのかすっかり忘れてしまった」「夢の中ですごいことを思いついて起き上がってからしばらくウキウキしていたのに、顔を洗っているうちに思い出せなくなってしまった」などという記憶はないだろうか。なにかすごく大切なことを忘れてしまったような気がするが、なぜ大切だったのかすら思い出せない。昼食を食べるころには、素晴らしい夢を見た、という事実さえおおかた忘れているものである。

 ヒロキとサユリは夢の中で特別な感情を築いたが、サユリを夢の世界の孤独から救うためには、夢から目覚めさせて現実に連れ戻さねばならない。これは即ち、夢の世界でのふたりの絆や想いを忘却することを意味する。サユリの「なにかを失う予感」というのはラストシーンではっきり示されているとおり、この忘却を指す。

 

 ここなのだ。問題はこの「忘却」なのだ。

 ここまでの内容を映像から読み取り、理解するのは、なかなかクセがあるものの、まだなんとか付いていくことができる。あの滔々と続くモノローグやら夢の世界でハトを追いかけるという抽象的極まる描写やらから二人の想いを拾い上げて上記の内容を推測するというのもなかなかキッツイ作業であるが、「ああ、この『忘却』が今回のオチで感動ポイントなんだな」とアタマで理解することは、まあ、まだなんとかなる。

 しかし、その感動ポイントに「共感して、感動できるか」という段になると、もはや簡単とか難しいとかの話ではなくなる。論理的に、不可能なのだ。

 だって、そうでしょう? 忘れちゃった感情に、どう共感しろっていうの?

 本作のラストシーンで、サユリは無事に夢から解放されて現実の世界に目覚めた。その瞬間、夢のなかでサユリが危惧していた通り、「夢のなかの自分」が抱いていたヒロキへの異常なまでの想いは、きれいさっぱり忘れてしまった。その喪失の衝撃は、サユリの涙となって表出する。ここまではわかる。でも、これにどう感動しろというのか?

 夢から目覚める寸前でサユリはこれから失うものとその大きさを自覚する。忘れちゃう、忘れちゃう、いやだ、忘れたくない~~~!!と思いがこみ上げて来たる瞬間にむけて場面を盛り上げていく。しかし、その昂揚の最高潮は、「あ、忘れちゃいました(笑)」だ。

 そもそも想いの「喪失」と書いたが、これは「夢のなかのサユリ」が「夢のなかのサユリの想い」を喪失する、という話である。現実世界のサユリだけ見ていれば、彼女は何も「喪失」なぞしていない。ただ眠りから目覚めただけであり、これからまた現実世界を生きていくだけの話である。いちおう涙は流しているが、なぜ自分が泣いているのか、その本質は自身でも理解することはできない。「私たちの、夢での心のつながりが、どんなに特別なものだったか」なんて、だれにもわからなくなってしまう。「夢から目覚めた自分」は「夢のなかの自分」に100パーセントの共感することができないのだ。

 この様子を見せられて、視聴者はどこに感動すればよいのか。「あ~あるよねそういうこと、なんで忘れちゃうんだろうね(笑)」くらいは共感できる。

 しかし、それまでだ。これ以上の共感は創造されない。サユリが目覚めたとたんに夢の世界はすべて失われる。ラストシーンに至ったとたんに、そこまで盛り上がってきたハナシはすべて無かったことにされる。サユリ自身もその喪失の重みを理解できないのだし、視聴者だって視聴者自身の夢の喪失すら理解ができないのだ。

 本作のラストに据えられたサユリの喪失に、視聴者が共感できるわけがない。したがって、視聴者は混乱のうちにスタッフロールを眺めるしかないわけだ。マヌケ面で。

 

 「雲のむこう、約束の場所」がやばいのは、この一点である。この作品は「『感動すべきポイントが参照できないという状況』そのものに感動せよ」と視聴者に強いているのである。論理的に、そういう状況が発生しうる、ということは理解できるものの、それを中核に据えて作品をひとつ作ってしまうという新海誠の脳ミソの構造、「やばい」というほかない。

 

 この「感動すべきポイントが参照できない状況」をラストシーンに据える、というのは脚本上のご法度といってもよいのではないだろうか。

 異世界の冒険を終えた主人公が現実世界に戻ってくる拍子にすべてを忘れてしまう、という筋書き自体はありふれたものであるが、たいていは何かしら別のオチがつく。

 具体的には、「ダメダメだった主人公は冒険を経て成長し、記憶こそなくしているものの、帰ってきた現実世界では自信をもって生活を送れるようになる」とか、「夢のなかの人物と現実世界で再会して、そこから新たな関係が動き出す」(あれ、これって「君の名は。」じゃね?)、とか。どこかで見たこと、読んだことがあるストーリーだろう。

 ハリーポッターシリーズの「ファンタスティック・ビースト」では、ノンマジ(非・魔法使い)の男が魔法の冒険に巻き込まれ、記憶を消されるシーンがラストに置かれているものの、ここは感動ポイントとして据えられたものではない。忘却魔法によって大冒険の記憶を奪われた哀れなノンマジがマヌケ面で日常生活に戻っていく、という「喜劇」なのだ。悲劇として成立しえないのだから、そのように処理するにほかはない。

 もちろん 宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のように、そもそも記憶をなくさない、というパターンもある(しかも、感動の頂点は真名を思い出すことでハクとの絆が蘇るあのシーンに来るように設計されている)。

 

 しかし「雲のむこう、約束の場所」は、新海誠は、このパラドックスをそのまま視聴者に突き付けている。

 あの作品のラストは、だれにもわからないのだろう。

 

 

 

追記。

 ヒロキは泣くサユリにまたこれから関係をつくっていこう的な慰めの言葉をかけているが、果たして彼らは、夢のなか以上の関係を、現実世界で築いていくことができるのだろうか。作品冒頭には不穏なモノローグが一つ差し込まれているし、小説版には後日談がはっきりと書かれているらしいが、正直この点については考えを深めてもあまり面白くない。ヒロキの最後の言葉を、これからの関係の支えとして、二人の新たな「約束」として、その可能性に賭けるほうが、まだ救いがあるというものだ。

 

「大丈夫だよ、目が覚めたんだから。これからぜんぶ、また。」

 

 

 

あとがき。 

 仙台のちいさな劇場で「雲のむこう、約束の場所」のリバイバル上映がなされたのは去年の12月、つまりこの記事の構想を持ちはじめてから、ゆうに半年が過ぎてしまった。せっかくだからと「君の名は。」のBlu-rayディスクが発売前にまとめた。

Wordのルビ「右縦寄せ」の謎

 ちょっと用があって、過去に作ったWord文書をいじっていたらこんなものを見つけました。

f:id:kagami_sensei:20161203032055p:plain

 

 「配置」の部分にある 「 右 縦 寄 せ 」という選択肢。

 

 なんだろうなーと不思議におもい、新しい文書ファイルで(古いファイルは変に壊したくない)この機能を試そうとしたところ、

f:id:kagami_sensei:20161203032235p:plain

 

あれ?

 

……無い。

 

 はい、この「右縦寄せ」は現在のWord 2016には存在しない機能です。

 もともとの用事を放置して、ググったりMicrosoftのサポートに電話したりと3時間ほど調べたところ、「右縦寄せ」はWord 2007くらいまでは実装されていたものの、Word 2016ではなくなってしまったことがわかりました。

 ルビの配置をそれぞれ比べてみると、次のようになります。一目見てわかるとおり、「右縦寄せ」は、“文字の右側に縦書きでルビを振る” というもののようです。

f:id:kagami_sensei:20161203032423p:plain

 ただ、Word 2016でもさっきみたいに(Word 2007以前の環境でつくった)古いファイルを開けばちゃんと「右縦寄せ」が表示されるわけで、ウラ機能としてちゃっかり残っています。そしてちょっと手間ですが、Word 2016で新たに「右縦寄せ」を含む文章をつくることも可能でした。

 

 Microsoft Wordのルビ機能は、ルビ機能として単体で存在するわけではなく、数式などでみるような特殊な文字の並べ方を指定するための「数式フィールド(EQフィールド)」を使いまわしたものです。

 たとえば、適当にルビ付き文字をつくった後に「フィールドコードを表示」を選ぶか、「Alt」と「F9」を同時に押すかをしてみてください。次のように表示されるはずです。f:id:kagami_sensei:20161203032620p:plain

  暗号のようなものが表示されました。これがルビの正体だそうです。

(比較のため、元の文章「氷を」とフィールドコードを上下に並べています)

 文字の配置は「\* jc2」の部分です。「jc2」は、配置のさせ方の2番、すなわち「均等割り付け2」を意味しています。先の配置の比較の図にもすでに書いておきましたが、この数字をいじれば、ルビの配置を変えることができます

 一般的にはもう設定できない「右縦寄せ」も、配置の5番「jc5」に割り振られています。試しに「jc2」を「jc5」に書き換えてから戻してみてください(選択して右クリックから「フィールドコードを非表示」、もしくは再度「Alt」+「F9」)。

 

 ね、「右縦寄せ」になったでしょう?

 

 「右縦寄せ」について調べても出てこなかったので、自分でまとめちゃいました。互換性を保つためか、Word 2016でもひっそりと生き残っていますが、基本的にはもう表立って指定できなくなってしまった設定です。いつ完全に削除されてしまってもおかしくありませんので、今後は使わないほうが無難かもしれません。

 その他「数式フィールド」については、すでに様々な方がまとめてくださっていますので各自おググりいただいて、そちらを参照してください。

ブログ、始めました

 改めまして、こんばんは。かがみと申します。
 初めてブログというのを作ってみました……いや、そういえば初めてじゃないですね。たしか中学だか高校だかの時に、部活の友人に誘われてつくった覚えがあったような。前略とか、絵文字にあふれた日記帳とか、パステルカラーの内輪向け自己紹介ページとか。

 あまり思い出したくないモノが色々ありましたので"ブログ"というものから距離を置いていたのですが(あと初回設定めんどくさいし、Twitterのほうが楽だし)、映画「君の名は。」を見たら長文を書きたい欲がわいてしまい、重い腰を上げてみました。星が降ってしまったのですから、仕方のないことです。

 すでに三篇の記事が上がっており、最初のふたつは「秒速5センチメートル」、最新のものは下に挙げる「君の名は。」の感想文となっています。

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 今後については、あいかわらず批評チックな文章を書き綴るのか、日記のような扱いになるのかはまだ決めていません。ただ、ブログ設立の理由が理由ですので、もうしばらく新海誠にからんだ記事が並ぶことと思います。もうしばらくお付き合いください。

 なお当ブログの内容は、思いついたことを、チラシの裏やTLに流されていく呟き、ローカルのTXTファイルに打ち込んだだけではなんか惜しいからまとめてみただけ、言ってしまえばオープンな自由帳みたいなものでして、あまり深い思索に基づくものではないということ、だれに向けたものでもないということを言い逃れしておきます。
 なにか問題があれば、認識を改めたり、書き直したり、削除したりと検討しますのでコメントなどで気軽におっしゃってください。必ずそうするとも限りませんが。

 また「かがみ」という名はこのブログにおけるハンドルネームとなっています。IDも "kagami" で取りたかったのですが当然もう使われていましたので、「言の葉の庭」の雪野先生をイメージして「せんせい」と足してあります。あまり深い意味はないのですが、日本の古典文学も好きなのでその手の記事もいつか書けたらいいですね。

 

 それでは、ずいぶん遅いあいさつとなってしまいましたが、なるべく放置しないようにがんばりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

かがみ

新海誠の小説性と「君の名は。」

副題:「私たちが愛した新海誠は死んでしまったのか?」

 

 新海誠監督の最新作「君の名は。」が公開されてから一か月とすこしが経った。

 街を歩けば前前前世をきかない日はなく、休日の劇場はいまでも満員に近い客入りを見せている。全国紙でも、ヒットの理由を探る特集が組まれた。興行収入は既に日本のアニメ史に残る伸びを見せ、いまだ衰えを知らない。平たく言えば、大ヒットだ。

新海誠監督『君の名は。』勢い止まらずV6 興収128億円で『風立ちぬ』超え

ORICON STYLE http://www.oricon.co.jp/news/2079371/full/

 前作「言の葉の庭」まで、新海誠は比較的コンパクトな、短編アニメーションを好んで制作していた。そのころから一貫して評価されていたのは、背景の圧倒的な映像美である。 

f:id:kagami_sensei:20161010130639j:plain

 アニメーション作品とは思えないほどの写実性もさることながら、反射光をふんだんかつ効果的に取り入れた陰影の描写は、彼の作品以外ではなかなか類を見ることができない。とりわけ、夕闇に差す複雑な光のかさなりや、梅雨時の雨のきらめきなど、空にまつわるものの表現は格別だ。新海誠の描く世界は、妥協なくリアリスティックでありながら、そこはかとなく繊細で、浮き世離れしている。

 しかしもちろん、新海作品の特徴は背景の美しさだけではない。
 特に私が好んでいたのは、「よくまとまった短編小説を読み終わったときのような心地よさ」だ。言の葉の庭以前の作品においては、キャラクターや物語そのもののアクション性に乏しかったものの、人物の心情表現が極めて緻密であった。
 登場するキャラクターは、たいがい表情の変化がすくなく、派手に動き回ることもない。その代わりに、その人物がなにを見て、なにを感じ取り、なにを考えたかはつぶさに記される。よく「新海節」として挙げられる、登場人物のモノローグ(心情の独白)はこれの一側面である。心情が動きとして現れない代わりに、キャラクターはたどたどしくも懸命に、自らの気持ちの動きを口述する。

 これは新海誠が人物の、なかんづく人の顔の描写を苦手とすることに強く起因するだろう。だから、彼がどこまで意識して、または計画してこの方向を選んだのかはわからない。しかし結果的に、新海誠が好んで取り上げるのは、自分の感情をうごきや表情などでうまく伝えることができない壮大な想いに悩む人間の姿となった。アクションとしての面白さ、有機的なうごきの描写を放棄した結果として、彼は人間の心理に寄り添うこととなった。深く描かざるを得なくなった。彼の作品は人間の心の機微の記述に特化することとなった。

 そして、そこに鮮やかな情景画が重ねられる。登場人物の心情は、石畳にはねる雨粒に、誰そ彼時の朱色に、空に瞬く星々の光の中に投影される。人物はみずから精一杯の言葉を紡ぐものの、すべてを言い表さずとも想いを訴えることができる。むしろ言語化せず視覚に訴えたほうが的確に伝わる感情というものもあるだろう。キャラクターの存在が希薄であり動きに乏しいというのも、そのキャラクターの内的世界を投影したスクリーンに影を作らない、という点において、かえって美徳となるのだ。
 モノローグと観る者の心に響く背景画。これによって、新海誠の作品は豊かな人間性を得た。喩えていうと「極上画質の紙芝居」というのがわかりやすいだろうか。これまでの新海誠の作品は、アニメーションよりも小説文学に近い「静の芸術性」を根幹としていた。

 

 さて、「君の名は。」の大きな特徴は、このような「新海節」をつよく抑え込み、快活にして表情豊か、だれにでも親しみやすい作風へと大きく転換した点にある。
 これは、衝撃的な事態だった。結果的に「君の名は。」は、事前のファンの読みを裏切って、大人から子供まで、カップルから面倒くさいオタクまで、幅広い客層に受け入れられた。この劇的な転換については下のブログが詳しかったので、そちらをご参照ねがいたい。

『これまでの作品と完全に逆転してるじゃねえか!「君の名は。」感想』
http://teenssexandwarmode.hatenablog.com/?page=1474630200

GAKImode「17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード」

  っていうか、ここまでの内容もけっこうカブッてるじゃないですかヤダー。

……まあ、本題はここからなので気にしません。

 

 繰り返しになるが、新海誠の転換は衝撃的だった。彼がこんな作品を作るのかとひどく驚いた。しかも嬉しいことに、すごく面白かった。
 やはり君の名は。は面白かったのは、キャラクターが生き生きと動いていたことが大きな要因だろう。三葉ちゃんが笑顔でパンケーキを食べ、瀧君が豪快にシュートを決める。三葉ちゃんが通学に戸惑い、瀧君がおっぱいを揉む。やがてふたりはみずからと糸守町の運命を知り、時空を超えた冒険を始める……。
 これだけ見ると、これまでの新海誠は、静けさと美しさと、饒舌な独白によって心情の機微を見事に描いていたこれまでの新海誠は、完全に捨て去られたかのように見える。依然として美しい背景も、人物の心を映す鏡としてでなく、「動の芸術」を支える、単なるきれいなパーツに格下げされたかのように見える。

 

 では、私たちが愛した新海誠は死んでしまったのだろうか?かつての作風は完全に放棄してしまったのだろうか?やはり背景は動きあってこその存在、アニメーションの奴隷なのだろうか?

 確かにアニメーションとしての面白さ、キャラクターが動く面白さを導入したぶん、これまでの新海誠っぽさが鳴りを潜めたのは間違いない。

 が、私は、糸守町に彗星が落ちるまでの一分間に注目したい。スパークルがサビに入ってからのあの一分間である。ほかにも好きなシーンを挙げればきりがないけれども、あのシーンは特別だ。

 

f:id:kagami_sensei:20161010194652j:plain

 

 この一分間は、作品の核であり、新海誠の真骨頂ではないかと思う。
 冒頭部の「そういう気持ちに取り憑かれたのは、たぶんあの日から」が指すように、物語は彗星が降るあの日を回想するかたちで切り出されているが、スタートであると同時に糸守町をめぐる冒険活劇のフィニッシュでもある。

 糸守町に落下した彗星のかけらは、すべてを壊していったと同時に、すべてを結ぶ組紐の端緒であった。「スパークル」が流れ出すのは、いまにも彗星が落ちてきそうなその瞬間である。そこまでは、また、スパークルが流れ始めてからもその最後の一分間まで、キャラクターは彗星から町を守るために、三葉をおぞましい運命から守るために、もういちど瀧君に会うためにと悩み、叫び、泣き、走り、とこれまでの新海誠作品では考えられないほどに行動をとり続けた。そこは、本作品で取り入れた「動き」が活きるところである。キャラクターが動きに動き、叫びに叫んだその果て、スパークルもサビに向かって盛り上がり、物語の絶頂に向けて興奮が最高潮に達しようとする。

 しかし、最後の最後までキャラクターが動かし続けたわけではない。

 最後の刹那、新海誠はすべてのキャラクターを沈黙させた。

 そして、ただひたすらに流れる彗星を描いた。

 最後の一分間、それを新海誠は自身が最も得意としてきた方法で描いたのだ。

 最後の一分間は、スパークルに乗せて彗星が空を駆け、地上に墜ちるまでの一分である。「ただ、ひたすらに美しい眺めだった」という瀧のことばも納得の素晴らしい映像であり、これまでの作品でも繰り返しモチーフにされてきた「世界の秘密」が本作でも描かれた形となる。

 また、ストーリーの要と「世界の秘密」的な珠玉の映像表現が、ともに彗星という「空の風景」に一致しているという点もおもしろい。

 際限なく広がる空は、身近なものでありながら、背伸びをしてもジャンプをしてもまったく届かない遠い存在だ。私たちはこれに対して下から首をそらして見上げるほかなく、どうしようもなく無力だ。

 本作の登場人物も例外でなく、神々しく魂が吸われるほど美しいあの眺めに対して取れる行動は、ただ下から見上げるだけである。人智を超えた神秘的な光がゆっくりと夜空をふたつに分けていくあの瞬間に、彼らが直接できることは何もなかった。眺める思いはみんな異なるだろう。大きな存在によって失われる町があり、結ばれる絆があり、忘却させられる記憶がある。それに対して人々はなにもなすことができず、ただ各々の思いを込めて見上げるばかりである。彗星はただ静かに、ひとびとの万感をのせて、空を切り裂いてゆく。

 これはまさしく「静の芸術」である。

 これまで通りの新海誠、いや、これまで以上の構成である。

 星が降ってくる、という現象は、糸守町を舞台としたふたりのストーリーにおいても、小説的な暗喩としても、まさしく人間の所為を超えた「運命」なのである。新海誠はこれを、磨き上げられた自身の背景美術と、それに寄り添う音楽だけで表現しきってみせた。そこまでに描いてきたすべてのアクションを、もはや言語化できないほどに極まった登場人物それぞれの感情を、そして私たち観客すべての興奮を、すべて私たちの手の届かない静かな一筋の彗星に集約し、託してみせたのだ。

 新海誠は新進気鋭の映画監督であり、意欲的に挑戦し続ける姿勢を見せる。そのなかでどこに「新海誠らしさ」を見出すのかはひとそれぞれだろう。私が考える新海誠らしさは、この通りだ。君の名は。は、過去の全否定ではなく、より高みを目指した挑戦なのである。

 

 とまあ、たとえばこんな見方はどうだろう?

 だいぶ記憶によりながら書いたので間違っているところもあるかもしれませんが、とりあえずアップしておきます。なにか気づいたら教えてください。

 つぎは「君の名は。」と新海誠の課題について、次々回はタイトル「君の名は。」の意味を考えるよ(予定)。

秒速5センチメートルは、「バッドエンド」か?

 勢いでブログを作って2記事目。ひきつづき新海誠の代表作「秒速5センチメートル」の話をしたい。前回の記事は読んでいただけただろうか。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

  読んでない? じゃあムリに読まなくていいですよ。

 要するに、秒速は ”神格化された明里との埋まらない距離” を描いた作品であるという話をしていた。貴樹はたしかに明里に恋をしていただろうが、彼女との距離がひらくにつれて、明里の存在と雪原での思い出は神格化にちかいレベルで美化がなされた。人間としての明里に恋をしているのではなく、神聖なる幻影に恋をしているのである。これではもはや、貴樹の明里に対する感情は、恋愛よりも「崇拝」といったほうが近いかもしれない。そんな内容である。

  さて、この秒速5センチメートルであるが、かねてより観る者の心を深く抉る、いわゆる「鬱アニメ」として知られていた。

 純粋で美しくもはかない恋の思い出を巧みに切り取った「桜花抄」となにも得るものなく空っぽのまま大人となり、自身を摩耗させるだけの日々を送る「秒速5センチメートル」の対比は凄まじいものがあり、特に後者は、青春が思い出となり心の弾力を失いつつある20代~30代男性が抱える、漠然とした不安や劣等感、虚無感と見事に共鳴する。美しいキスはより美しく、残酷な現実はより冷淡に描く、新海誠の映像美は物語のインパクトをさらに強めており、彼にしか築き上げられない芸術世界には熱狂的なファンがついていた。

 このファンの一部で薄らぼんやりと共有されているのが、今回話題としたい「秒速5センチメートルは、バッドエンドの物語である」という認識である。

 あくまでだれが言っていたというわけではないので、お前の妄想だ、仮想敵をつくって叩こうとしている、といわれても強く否定できないが、すくなくとも私だけがきいている話ではない。新海誠監督もファンの間にこのような認識があることはご存じだ。

 

 流れ的にいうまでもなく、私はこの「バッドエンド論」に首をひねっている立場だ。たしかに第三章「秒速5センチメートル」はやり場のない閉塞感に鬱屈とした貴樹のつらい日常が描かれており、ハッピーエンドには程遠い雰囲気である。でも、だからって、「バッドエンド」か?ちょっと安直すぎない?(いや別にひとそれぞれで良いんだけれどね?)

  話を簡単にしよう。もしも、秒速5センチメートルが「明確にバッドエンド」ならば、どうなるか。

  無情な時の流れによって貴樹は冴えない大人の一員に成り下がるも、どこか幼いころの初恋が胸に引っかかったままで、駅のホーム、交差点、すれ違う人のなかに明里の姿をさがしてしまう。「もう一度会いたい。」貴樹の強い念がつうじたのか、桜舞う春のある日、かつての通学路であった踏切で、彼は、美しく成長した明里とすれ違う。しかし、一瞬の反応の遅れから遮断機と電車にさえぎられてしまい、ふたたび線路の反対側が見えるようになったころには明里の姿はなかった。来た道を戻り必死になって探すも、もはやどこにも見つからない。貴樹はがっくりと膝をつき、みじめに嗚咽を漏らした。

  これならば紛うこと無きバッドエンドである。見つけられたが明里に忘れられていた、とか、彼氏と楽しそうに話してて近寄ることすらできなかった、とかでもいい。明里に対する想いが一方的に空回りし、なんの救いも得ることができなかった貴樹、まさしく悲劇というほかない。

 ところがどっこい、本作の最後はこうなってはいない。
 踏切で明里とすれちがった貴樹は、電車の過ぎ去った線路の向こうに彼女がいないことを確認する。追えば間にあうだろう。

 しかし、彼はふっと笑みを漏らし、くるりと前へ向き直るとそのまま歩み去ってしまう。これはどういうことなのか。

 解釈の可能性はひとつではない。ようやく心を縛っていた幻影を「むかしの美しい思い出のひとつ」として整理する決心がつき、新たな、彼自身の人生を歩み始める、そんな心持ちの変化が現れた描写とみることもできよう。または、明里がいまは彼女自身の生活を送っていることを静かに悟り、そっと身を引く刹那を描いたとも読める。もしくは、もう貴樹にとって現在の明里がどう生活しているのかなどどうでもよいのかもしれない。彼が崇拝しているのは記憶の中の明里、神聖なる幻影であるところの「過去の明里」であって、いまさら世俗的で神秘性の欠片もない「現在の明里」になぞ魅力を感じない、そういった捉え方もできる。

 いずれにせよ、「ふっと微笑んで歩き出す」というのは、安直なバッドエンドとはちょっと食い違う表現なのだ。この微笑みの中に、私たちは彼の決意を、救いを、考えを、これからを、読み取ることができる。
 ハッピーエンドというわけではない。しかし、この一瞬に貴樹の思いが詰まっており、かつその結末が明示されないだけ、物語の幅が広がって味わい深いものとなる。わかりやすいバッドエンドで物語を締めないおかげで、私たちは、貴樹の「明日」を思い描くことができる。

 

 あえてつよく言い切ろう。「秒速5センチメートル」は、決してバッドエンドではない。「秒速5センチメートル」は、貴樹が「明日」へ踏み出すまでの過程を描いた物語なのである。

 最後に、恐縮ながら新海誠監督がこの作品に寄せたメッセージを紹介し、記事を閉じたい。

我々の日常には波瀾(はらん)に満ちたドラマも劇的な変節も突然の天啓もほとんどありませんが、それでも結局のところ、世界は生き続けるに足る滋味や美しさをそこここに湛(たた)えています。

現実のそういう側面をフィルムの中に切り取り、観終わった後に、見慣れた風景がいつもより輝いて見えるような、そんな日常によりそった作品を目指しています。

コミックス・ウェーブ・フィルム秒速5センチメートル』公式サイトより
新海誠監督 本作に寄せて」

http://www.cwfilms.jp/5cm/director/index.html(2016年10月2日取得)

 

 次回はやっと「君の名は。」の話に入れるよ!!

 

追記:

君の名は。」の話に入ったよ!はたして「君の名は。」は過去の新海作品の全否定なのかな?!って話だよ!!

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

遠き ”明里” を追う ―「秒速」をみて―

 さて、ブログ開設のあいさつもなく、ちょっと秒速について語りたい。秒速、すなわち「秒速5センチメートル」とは、こんな記事を読んでいる人間にとって説明するまでもない、今を時めく映画監督、新海誠の代表作のアレである。 

 

秒速5センチメートル [Blu-ray]

秒速5センチメートル [Blu-ray]

 

 

 私がはじめて秒速を見たのは、映画「言の葉の庭」が公開された年の秋のことだった。「言の葉の庭」ですっかり魅せられた私は、実家のテレビを占拠して新海誠の過去作を一気に鑑賞した。そのときの私が記した秒速の感想文が、いまもテキストファイルで残っている。

その名も、「届かぬ愛の呪縛と非情な優しさについて」

……鑑賞直後の感傷がにじみ出ていて、かなり痛々しい。

とはいえお蔵入りもなんか惜しい。わりとしっかり書いてるし。手直し、というかほぼ書きかえる勢いだが、どうにか公開してみよう。

 

―「秒速5センチメートル」をみて―

 

 主人公・遠野貴樹は「残酷に優しい男の子」である。

 いきなりなんだと思うかもしれないが、なんということもない。ニセコイの一条楽、化物語阿良々木暦あたりを想像しておいてほしい。ハーレム的なラノベや漫画でもよく見るタイプの、典型的な主人公のキャラだ。

 彼らは、誰に対しても優しい。だから、女の子の好意は自然と集まるものと相場が決まっている。つねに女の子を侍らせて歩く、天然の誑しである。

 たとえば、上にあげた阿良々木君。みずからの名を冠するハーレムで何人侍らせているのかはもう数えるのも億劫だが、『化物語 上』の「まよいマイマイ」では、のちの彼女・戦場ヶ原ひたぎを、こんなふうにガッツリ失望させている。

「阿良々木くんは、ひょっとして、私だから助けてくれたのかしら?」

「…………」

「でも、そうじゃなかった。そうじゃなかったみたい。そうじゃなくて、単純に、阿良々木くんって……だれでも助けるだけなのね」

(2006年 西尾維新化物語 上』 講談社 pp. 226-7.)

 誰にでも優しい彼らは、逆説的であるが、隣にいる一人の好意にさえ応えられない、時にひどく冷たい人間である。

 

 秒速5センチメートルの「コスモナウト」は澄田花苗の視点から、そんな彼らの非情さを巧く捉えている。ここでの「優しい男子」というのは無論、一連の主人公であるところの遠野貴樹である。

 コスモナウトにおける貴樹は、東京からコスモナウトの舞台である鹿児島に転校してきた中学生であった。鹿児島で生まれ育ったであろう花苗は、ほかの同級生とは明らかに異なる大人気な雰囲気に魅了され、その日のうちに好きになったという。貴樹の立ち振る舞いはコスモナウトでとおして穏やかであり、花苗に対しても紳士的に、つねに優しく接していた。花苗は貴樹と言葉を交わすたびに、姿を見るたびの胸に思いを募らせていく。縹渺とした自分の将来への不安と、溢れんばかりの彼への思いとで必死に悩み、足掻いている彼女の懸命な姿はとても健気で、見ているこちらまで「がんばれー!がんばれー!」と拳を握ってしまう。

 しかし、この恋する乙女の思いが報われることはないとこれまた相場が決まっている。なぜなら残酷な彼らは、優しいから優しいのではなく、だれも選べないゆえに、結果的に、止むを得ずだれにも優しいだけなのだからだ。

 ひとりに好意を向けられない彼らは隣の女性も愛することはできない。(ニセコイはいちおう最終話まで至ったものの、あれは果たしてほんとうにひとりを選べたと言っていいのやら……)コメディの色が強い作品の主人公は、本当に優しいから優しかったのかもしれない。しかしながら新海の作品にそのような甘えはない。貴樹は ”非情に” 優しい男子なのである。

  遠野貴樹がなぜだれも選べないか、などは言うまでもない。幼い記憶に息づく篠原明里を追いかけ続けているからだ。明里と心を通わせてから、正確には桜の木の下でその唇に触れて以来、彼の心は ”明里の幻" に囚われ続けている。平たく切り捨ててしまえば新海誠の「秒速5センチメートル」とは、「淡い初恋を忘れられないまま大人になっちゃった残念男子の物語」となる。まったく間違っていないし、斯く言い直してみれば実にありふれた、滑稽な話だ。しかしこの作品に魅せられた身として、そんな安直なまとめに口を閉ざしてはいられない。

 

 遠野貴樹にとって、篠原明里は「世界の秘密」である。新海監督はこの言い回しが好きなのか、「言の葉の庭」でも孝雄の独白でも重要な役割を担わせている。私も好きな表現だ。世界の秘密、それは儚くも、魅惑であり、神聖である。

 遠野貴樹は「世界の秘密」に恋をした。貴樹が明里に寄せる思いは、世間一般いわれるところの「恋」であり、確かに間違いなく恋である。しかし彼本人にとっては違うだろう。「恋」などという陳腐な言葉よりもさらに大きな存在なのである。彼にとって "明里" は神聖な存在となってしまった。時間の経過が "明里" を神聖な存在にしてしまった。神聖なる存在とは、すなわち手の届かないということである。鮮烈に脳裏に焼き付いた、過去の、不可侵なる彼女の面影に、彼は触れることすらできない。彼にできることは、幻影を胸に抱き続け、縋ることのみなのだ。

 純粋な信仰心がときに崇高であるように、叶わなかった恋の思い出を追いかける姿も不思議と強く心を打つ。新海誠の、「秒速5センチメートル」の魅力も、そのようなところにあるのではないかと思う。

 

 ただ、一方で言っておかなければならない。貴樹はグズでどうしようもない誑し、人の心を踏みにじるダメ男だ。

 寝ても覚めても明里のことしか考えられなくなってしまった貴樹は、取り敢えず周囲に優しくしているだけ、もっといえば、周囲に感情のエネルギーを振り分けられないだけであり、花苗もそんな彼の、いつもどこか遠くを見ているような様子から自分のことなぞ「見ていない」と悟り、告白の言葉を胸に呑み込んでしまった。第三部の「秒速5センチメートル」で出てきた彼女も彼からは当り障りのない、却って無いほうが幸せだったであろうほどの中途半端な優しさしか恵んで貰えなかったし、おそらくこの誑しは大学でも近くにいた女子を適当に優しくしてはその純真な想いを踏みにじってきたのであろうと私は信じて疑わない。

 たとえ被害者面をしていようが、彼はいつだって傷つける側だったのである。

 「秒速5センチメートル」という作品を見る者の心は、新海誠の魔術によって美しく描かれた "過去" に共鳴し、そのあまりの遠さを突き付けられて絶望させられ、苦しむ貴樹の心情に自らを重ね合わせる。第三部である「秒速5センチメートル」で "One more time, one more chance" を聞くころには、その振る舞いが如何にむなしく、どれだけの時と他者を蔑ろにしてきたのか、喉元に突き付けられる。

 このような作品で心が抉られないはずがない。衝撃的であり、私が特に好きな作品であり、怪作である。(以上)

 

……と、以上が発掘したテキストファイルの「前半部」である。めっちゃ長ぇ。

 元の文章では、ここから "余談" に進むのであるが、実は私がいま注目しているのは、この余談のほうだ。

 

 勢いでブログ立ち上げて、そのまま一気に記事書いてるけど眠いから限界。明日以降、その「余談」の話をブログ向けにまとめたい。

 

追記。書いたよ!!

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp