星降りぬ

書かねば。

「雲のむこう、約束の場所」ラストシーンについての考察

  「君の名は。」の大ブームを記念して、「雲のむこう、約束の場所」が駅前のちっちゃな劇場でリバイバル上映されると知ったとき、私は、半分この作品を銀幕で見れることに興奮しつつ、もうはんぶんは雪辱を果たす気分で、意気揚々とチケットを買った。

 と、いうのも、それまでこの作品をよく理解できていなかったのだ。例のごとくきれいな映像と、しっとりとしたモノローグが延々と続き、状況は転々と変わるものの、次の瞬間には唐突に幕切れ。秒速や言の葉の庭だってお世辞にもわかりやすい筋書きとはいえないが、この作品はそれにもまして掴みどころがない。はじめて見たのは3、4年くらい前のことだったかと思うが、私はさぞマヌケな顔でスタッフロールを眺めていたことだろう。

 だからじっくりと見なおす機会を待ち望んでいたのだ。

 

 そして、改めて観て、思ったことがある。

 

 この作品、やっべぇぞ。

 

 この作品がというか、新海誠のアタマがというか、とりあえずコイツはやばい。以下には、私が感じた「雲のむこう、約束の場所」のやばさをまとめる。結論から言うと、私は、この作品のオチは、ニンゲンの理解の範疇を超えていると考えている。

 

 ざっとあらすじを書く。

 本作品の主人公、ヒロキ(藤沢浩紀)と友人のタクヤ(白川拓也)は、海峡を挟んだ敵国にそびえる謎の巨塔に強いあこがれを抱き、独学で飛行機「ヴェラシーラ」の製作を進めていた。この企みはひょんなことから浩紀が思いを寄せる同級生、サユリ(沢渡佐由里)にもばれてしまう。三人は未完成の白い飛行機と、はるか遠くの天蓋を貫く巨塔を前に、いつかあの塔まで飛ぼうと約束をする。

 それと前後して、サユリはふしぎな夢を見るようになった。それは、もしかしたらあったかもしれない、別の選択肢をたどった宇宙、いわば「並行宇宙」で彼女ひとりが彷徨っている夢である。夢はしだいに身体を蝕み、ついに彼女は眠り続けたまま目覚めることなく、意識は「並行宇宙の夢」に閉じ込められてしまう。

 サユリの身体は、ヒロキとタクヤに知らされることなく東京の大病院に搬送され、そのショックから二人はヴェラシーラを完成させないままに別々の道をたどりはじめた。しかし、サユリと「並行宇宙」、そして謎の巨塔のつながりが明らかになると、二人は数年の時を経て再びヴェラシーラの仕上げに取りかかる。すべてはあの日の約束を果たすために。サユリの身体を塔のもとへと届け、彼女を目覚めさせるために。

 

 ……だいたいこんなかんじ?細かい設定抜けてるけど、べつにいいよね?

 まずもって、舞台設定が既にムズカシイ。

 なに? 「並行宇宙」って。ユニオン? 南北分断? 開戦? 謎の物理学者エクスン・ツキノエ? 「彼女を救うか、世界を救うか」????

 初めて見たうちには、このあたりの設定を飲み込むだけで脳ミソの大部分を持っていかれるだろう。すくなくとも私はそうだった。

 しかし、目的を「オチを理解する」だけに絞るならば、これら雑多な設定、

 すべて不要である。

 大切なのは、次の四点のみである。

①ヒロキとサユリは前々からとても親しい関係にあった。

②サユリは、夢の世界にひとり閉じ込められている。

③ほんの断片的だが、ヒロキとサユリは夢の世界のなかで接触を果たしている。

④サユリの身体を塔に届けることで、彼女は夢から解放されて目覚めることができる。

これだけだ。

 まず①だが、ヒロキは明らかにサユリへ片思いをしており、サユリもヒロキに対しては好意的に接している。たぶん放っといてもくっつくレベル。②は文字通り。細かい設定は置いておこう。

 特に大切なのは、③だ。夢の世界にとらわれたサユリは、孤独と恐怖に苛まれながらも、記憶の中のヒロキの存在と、ヴェラシーラで塔まで飛ぶという約束を心の支えにしてひたすら耐え続けていた。この彼女の想いが呼び寄せるのか、ヒロキもうたた寝をした瞬間に彼女がいる夢の世界を共有することができた。ただしそのつながりが微弱なためか、またはヒロキが途中で目覚めてしまうためか、互いの気配を感じながらもなかなか巡り合うことができない。探し、求めあいながらも、あと少しのところで切れてしまう、もどかしい時間が続く。ヒロキの心も、もともとサユリの失踪が刺さっていたためか、いつしかこの「サユリがいる世界」の夢に引きずられてしまうようになっていた。

 簡単にいえば、「ヒロキとサユリは現実世界でまったく接点を持たないまま、夢の世界では互いをつよく求めあう関係になっていた」ということである。サユリにとってヒロキとの約束は、虚無の世界に残された唯一の希望であったし、ヒロキからしてみれば「世界の中心」と形容するまでに入れ込んでいて、しかも苦い青春の象徴にもなってしまったかつての片思い相手が毎晩枕元に立つわけである。心に占めるお互いの存在がどれほどの大きさに膨れ上がったか、まったくもって想像がつかない。

 これは現実的、肉体的には一切接触のない、精神純度100パーセントの恋愛感情だ。秒速5センチメートルでも似たようなことを書いた記憶があるが、こんな感情を表現するに「恋愛」などという凡庸な表現では少々役不足だろう。「崇拝」、「精神汚染」、「信仰」、「依存」、こんな、おどろおどろしい言葉のほうが、かえって似あうかもしれない。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 サユリの病変のおかげで二人の関係は尋常ならざる特別なものとなってしまったわけだが、あくまでこれは、夢限定の話である。夢からはいつか目覚めなければならない。

 

 さて、ここからが本題なのだ

 みなさまは「すっごくいい夢を見ていたはずなんだけれども、目覚めたらなにが楽しかったのかすっかり忘れてしまった」「夢の中ですごいことを思いついて起き上がってからしばらくウキウキしていたのに、顔を洗っているうちに思い出せなくなってしまった」などという記憶はないだろうか。なにかすごく大切なことを忘れてしまったような気がするが、なぜ大切だったのかすら思い出せない。昼食を食べるころには、素晴らしい夢を見た、という事実さえおおかた忘れているものである。

 ヒロキとサユリは夢の中で特別な感情を築いたが、サユリを夢の世界の孤独から救うためには、夢から目覚めさせて現実に連れ戻さねばならない。これは即ち、夢の世界でのふたりの絆や想いを忘却することを意味する。サユリの「なにかを失う予感」というのはラストシーンではっきり示されているとおり、この忘却を指す。

 

 問題はこの「忘却」なのだ。

 ここまでの内容を映像から読み取って理解するのは、なかなかクセがあるものの、まだなんとか付いていくことができる。あの滔々と続くモノローグやら夢の世界でハトを追いかけるという抽象的極まる描写やらから二人の想いを拾い上げて上記の内容を推測するというのもなかなかキッツイ作業であるが、「ああ、この『忘却』が今回のオチで感動ポイントなんだな」とアタマで理解することは、まあ、まだなんとかなる。

 しかし、その感動ポイントに「共感して、感動できるか」という段になると、もはや簡単とか難しいとかの話ではなくなる。論理的に、不可能に思われる。

 だって、そうでしょう? 忘れちゃった感情に、どう共感しろっていうの?

 本作のラストシーンで、サユリは無事に夢から解放されて現実の世界に目覚めた。その瞬間、夢のなかでサユリが危惧していた通り、「夢のなかの自分」が抱いていたヒロキへの異常なまでの想いは、きれいさっぱり忘れてしまった。その喪失の衝撃は、サユリの涙となって表出する。ここまではわかる。でも、これにどう感動しろというのか?

 夢から目覚める寸前でサユリはこれから失うものとその大きさを自覚する。忘れちゃう、忘れちゃう、いやだ、忘れたくない~~~!!と思いがこみ上げて来たる瞬間にむけて場面を盛り上げていく。しかし、その昂揚の最高潮は、「あ、忘れちゃいました(笑)」だ。

 そもそも想いの「喪失」と書いたが、これは「夢のなかのサユリ」が「夢のなかのサユリの想い」を喪失する、という話である。現実世界のサユリだけ見ていれば、彼女は何も「喪失」なぞしていない。ただ眠りから目覚めただけであり、これからまた現実世界を生きていくだけの話である。いちおう涙は流しているが、なぜ自分が泣いているのか、その本質は自身でも理解することはできない。「私たちの、夢での心のつながりが、どんなに特別なものだったか」なんて、だれにもわからなくなってしまう。「夢から目覚めた自分」は「夢のなかの自分」に100パーセントの共感することができないのだ。

 この様子を見せられて、視聴者はどこに感動すればよいのか。「あ~あるよねそういうこと、なんで忘れちゃうんだろうね(笑)」くらいは共感できる。

 しかし、それまでだ。これ以上の共感は創造されない。サユリが目覚めたとたんに夢の世界はすべて失われる。ラストシーンに至ったとたんに、そこまで盛り上がってきたハナシはすべて無かったことにされる。サユリ自身もその喪失の重みを理解できないのだし、視聴者だって視聴者自身の夢の喪失すら理解ができないのだ。

 本作のラストに据えられたサユリの喪失に、視聴者が共感できるわけがない。したがって、視聴者は混乱のうちにスタッフロールを眺めるしかないわけだ。マヌケ面で。

 

 「雲のむこう、約束の場所」がやばいのは、この一点である。この作品は「『感動すべきポイントが参照できないという状況』そのものに感動せよ」と視聴者に強いているのである。論理的に、そういう状況が発生しうる、ということは理解できるものの、それを中核に据えて作品をひとつ作ってしまうという新海誠の脳ミソの構造、「やばい」というほかない。

 

 この「感動すべきポイントが参照できない状況」をラストシーンに据える、というのは脚本上のご法度といってもよいのではないだろうか。

 異世界の冒険を終えた主人公が現実世界に戻ってくる拍子にすべてを忘れてしまう、という筋書き自体はありふれたものであるが、たいていは何かしら別のオチがつく。

 具体的には、「ダメダメだった主人公は冒険を経て成長し、記憶こそなくしているものの、帰ってきた現実世界では自信をもって生活を送れるようになる」とか、「夢のなかの人物と現実世界で再会して、そこから新たな関係が動き出す」(あれ、これって「君の名は。」じゃね?)、とか。どこかで見たこと、読んだことがあるストーリーだろう。

 興味深かったのは、同じ時期に劇場でやっていたハリーポッターシリーズの「ファンタスティック・ビースト」である。この作品でも、ノンマジ(非・魔法使い)の男が魔法の冒険に巻き込まれた末に忘却魔法をかけられる、という記憶抹消のシーンがラスト付近に置かれていた。

 しかし面白いことに、ここは感動ポイントとして据えられたものではない。忘却魔法によって大冒険の記憶を奪われた哀れなノンマジがマヌケ面で日常生活に戻っていく、という「喜劇」なのだ。悲劇として成立しえないのだから、そのように処理するにほかはない。

 

 しかし「雲のむこう、約束の場所」は、新海誠は、このパラドックスをそのまま視聴者に突き付けている。

 あの作品のラストは、だれにもわからないのだろう。

 

 

 

追記。

 ヒロキは泣くサユリにまたこれから関係をつくっていこう的な慰めの言葉をかけているが、果たして彼らは、夢のなか以上の関係を、現実世界で築いていくことができるのだろうか。作品冒頭には不穏なモノローグが一つ差し込まれているし、小説版には後日談がはっきりと書かれているらしいが、正直この点については考えを深めてもあまり面白くない。ヒロキの最後の言葉を、これからの関係の支えとして、二人の新たな「約束」として、その可能性に賭けるほうが、まだ救いがあるというものだ。

 

「大丈夫だよ、目が覚めたんだから。これからぜんぶ、また。」

 

 

 

あとがき。 

 仙台のちいさな劇場で「雲のむこう、約束の場所」のリバイバル上映がなされたのは去年の12月、つまりこの記事の構想を持ちはじめてから、ゆうに半年が過ぎてしまった。せっかくだからと「君の名は。」のBlu-rayディスクが発売前にまとめた。