星降りぬ

書かねば。

ゆゆ式における「敵」とはなにか ~ 情報処理部の弛まぬ努力について ~

 今年も“ゆゆ式 Advent Calendar 2018” が面白い。

adventar.org

 ゆゆ式10周年展と時期を同じくして始まったクリスマスへのカウントダウン。カレンダーが全マス埋まっているだけでも多くの人に愛されているという事実と活気が感じられて嬉しくなりますね。そして毎日が楽しい。一日ひとつずつゆゆ式のファンアートが増えたりゆゆ式の研究が深まったりする。嬉しい。

 毎年組んでくださってるえすじさん本当にありがとうございます。

 

 さて、そのカレンダーのなかに評論系が2~3みられた。読みながら「ゆゆ式語りたい欲」がむらむらと昂ってしまったので、勝手にこれら記事に乗っかりながらて吐き出したい。

 

 まず読んだのは、「ゆゆ式 Advent Calendar」より10日目、駅前ブラブラ氏の「なぜゆゆ式は神話なのか」である。

blog.livedoor.jp

 

 ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』については未読なのでよくわからないが、ゆゆ式にナラトロジカルな観点を持ち込んで分析しているところが興味深い。

 

 唐突だが、ゆゆ式のテーマとは何だろうか?

 多くの人は「日常は尊い」とか「女の子はただ楽しみたいだけ」とか「シビアでリアルな人間関係」とか「イベントなくとも、楽しい毎日。」などと答えるだろう。 本記事では「イベントなくとも、楽しい毎日。」がテーマだと仮定して、一般的な物語論を当てはめてみよう。

 まず、テーマからゆずこたちの欲望を抜き出す。 この場合の欲望は「楽しい日常」で問題ないだろう。

 物語の王道に従えば「敵」が現れるはずだ。そして「敵」は欲望が満たされるのを邪魔とする。この法則は日常作品であっても例外ではない。

 

駅前ブラブラ「なぜゆゆ式は神話なのか」『ゆるブログと行こう♪』

http://blog.livedoor.jp/yuyustudy/archives/14127338.html (2018年12月23日取得)

 

 

 駅前スマブラブラ氏は考察にあたり、2つの仮定を置いている。

ゆゆ式のテーマは「イベントがなくても、楽しい毎日。」である。

② 物語の王道に従えば、欲望の充足を阻害する「敵」が出現する。

 

 そのうえで、ゆゆ式には「楽しい日常」を脅かす「敵」は認められない、戦争やゾンビ、廃部の危機や人物同士のケンカがないことがゆゆ式の特異性だ、と述べている。

 この考察自体は齟齬を孕むものではないものの、看過しがたい疑念が残る。それは「敵」概念をごく限定的に適用しているのではないか、という疑問である。

 

 『神話の力』における議論がよくわからないので多少ずれるかもしれないが、童話から今日のサブカルに至るまで、「敵」を据えながら物語を進めていくというクリシェの存在は理論的にも直感的にも理解し得るものである。 

 駅前スマブラブラ氏の仮定によれば、「敵」は欲望の充足を阻害する存在である。今回の場合、「イベントがなくても、楽しい毎日。」が過ごせなくなる要因が「敵」とみなされるだろう。

 ここにおいて、駅前スマブラブラ氏は「楽しい日常」の阻害要因を戦争や外敵、ケンカなど、外的ないし特殊な事象に求めている。平和な日常を壊すのが「敵」というといかにもなイメージである。

 しかし、「楽しい日常」の阻害要因はこれだけではない。ゆゆ式は情報処理部の三人を中心とした軽妙な会話劇や登場人物コミュニティ内の交流を中心に「楽しい日常」を描いている。これらが成立しない状況は外的要因以外にもいくらでも考えられる。ネタが滑りつづける、会話が薄くなる、相手に嫌悪感を持つ、などなど。これらはゆゆ式的ではない。十二分にゆゆ式の「敵」と呼ぶことができるのではないのだろうか。

 

 簡潔にいうと、ゆゆ式の「敵」は「楽しくないこと」である。唯・縁・ゆずこのだれかがつまらなそうにしていたり、怒っていたり、悲しんでいることには耐えられない。常に明るく楽しい日常でありたい。このように彼女らの願いと「敵」を仮定すると、面白い視座を得ることができる。

 

 これもまた「ゆゆ式 Advent Calendar 2018」より16日目、紅茶氏の考察「ゆゆ式と常識」である。紅茶氏はあんな規格外なマンガをつかまえて「ゆゆ式は常識的である」という主張を打ち出している。

monochromeclips.hatenablog.com

 

 さて、まず最初に先に挙げた二作品の中からあるシーンを抽出します。一つは、あずまんがの別荘回でともちゃんこと滝野智が鍵を茂みに投げ捨てるシーン。もう一つは、きんモザのアリス誕生日回でシノこと大宮忍がプレゼントとして庭の石をあげるシーン。もう皆さんお気づきのことかとは思われますが、要するにゆゆ式にはこういった「友達であっても理解に苦しむ、最悪の場合喧嘩になる言動がギャグとして消費されていない」という点において常識的だ、ととるわけです。

(中略)

 これは三人の会話がそれそのものをネタとして楽しんでいる、筋書きによらない会話劇が成立しているという性質によるところが大きいと思われます。つまり、コミュニティ内においてcommon senseとしての常識が確立されているのです。

紅茶「ゆゆ式 Advent Calendar 2018 16日目:ゆゆ式と常識 」『灰色の日々』

https://monochromeclips.hatenablog.com/entry/2018/12/16/235052 (2018年12月23日取得)

  

 既にあるとおり、紅茶氏のいう「常識」とはマンガとしての修辞や筋書きの問題ではない。登場人物コミュニティ内で起こる会話の性質について指摘するものである。

 不勉強にてあずまんが大王はよくわからないが、確かに『きんいろモザイク』の大宮忍はときおり異常な行動を見せる。上の例も然り、金髪への執着も然り、アリスからのプレゼントを捨てかけたこともあった気がする。似たようなキャラでは『ご注文はうさぎですか?』ココアなども大概だろう。彼女らの行動は登場人物コミュニティからも読者からも理解されないコミュニケーション不全を作り出している。だからといって彼女らがコミュニティから疎外されることはあまりない。「そういうキャラ」として許されている。

 「そういうキャラ」というのは突飛な彼女らに限る話ではない。同じくきんモザごちうさで言うならば、アヤヤ/リゼはクールぶってるけどいざというときに赤面して慌てるキャラ、アリス/千夜はほんわかした性格でありながら周囲とずれたひと言を放り込んでくるキャラ。キャラクター毎に「そういうキャラ」が定められており、「そういうキャラ」同士がコミュニティ内でどのような化学反応を起こすかをネタにして楽しむ。あの手のマンガは、キャラ属性を推進力にしてコマを進めている。

 推進力で言えば、ほかに『ゆるキャン△』のキャンプ、『少女終末旅行』のポストアポカリプスのようにテーマを推進力とする例、もちろん廃校の危機を救うべく奮闘する『ガールズ&パンツァー』のようなストーリーを推進力とする例もあるだろう。

 

 さて、『ゆゆ式』にはストーリーもテーマも先天的なキャラ属性も与えられていない。何を推進力としてコマを進めるのかといえば、それは紛れもなく「楽しい日常」を過ごそうとする情報処理部3人の弛まぬ努力である。

 

 かつて、関係者の言葉を拡大解釈して「ゆゆ式は自然体だから良い」などとする言説が流行ったことがあったが、これは誤りだ。露骨な反証例を挙げれば次の二つである。

 

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 ともに『ゆゆ式』5巻から順にp.26, 30 である。このように各人の思考が読み取れるコマは非常に興味深い。見て明らかだが両方とも前の会話をふまえて、次の会話を検討し、場が盛り上がるよう最良の選択をしようと判断を下すという思考の流れが描かれている。つまりここから、情報処理部の巧みな会話劇は偶発的/自然の現象ではなく、すくなくともある程度は意図的に、そうしようという選択の結果として実現されたものだと考えることができる。

 この2場面だけじゃないか? と言われても困るので念のためほかにも挙げておこう。いずれもゆずこのセリフであるが、いずれも先と同様に3人が互いの反応をうかがいつつどう会話劇を進めていくか計算している様子がうかがえる。彼女らは日頃からこのような計算を積み重ねているのだろう。

 

「はー唯ちゃんは欲しい返しをくれるな」(5巻, p. 52)

「…がんばってふくらませた方がいい?」(6巻, p. 94)

「詰めると思わせて詰めない私のすごさね」(6巻p. 103)

 

 ゆずこのボケを唯が突っ込み、縁が笑ったり乗っかったりして会話劇を盛り立てる。ほかの2人を笑わせるために必死になって考えている。まるで漫才師だ。彼女たちはみずからネタを発見し、”common sense” のなかで調整して、会話劇を完成させるという流れを作品中に作り出し、所与の条件に頼らずしてマンガを推進させている。

 この点でゆゆ式は特異なマンガである、ということができるのではないだろうか。

 

 『イベントがなくても、楽しい毎日。』というのは、安穏と3人に与えられたテーマではない。不断の努力によって勝ち取られ、維持されていくものである。

 そのとき、情報処理部の3人は「楽しくないという敵」を積極的に回避している、もしくは積極的に会話を盛り上げることによって「楽しくないという敵」を克服している、と見ることができるのではないだろうか。

 

 

 

追記

 言いたいことは以上だが、現時点で見えている検討すべき点をいくつか。

① いつもいつも「ネタ」を作ってるわけじゃないでしょ?言いすぎじゃない?

② 「ネタ」を意識的に作ってるとわかる例が5巻あたりに固まってるけど?

③ というか「楽しく過ごす」と「ネタを作る」を整理せずにごっちゃに使ってない?

④ 情報処理部以外の4人はどうなるの?

 

 紅茶氏も先のブログやツイッターでこの辺りに言及していたし、私としてももういっこ記事書ける。上記の点に踏み込むには情報処理部と相ちゃん組のコミュニティの比較や『ゆゆ式』自体の変質について語らねばならないだろう。上では「ゆゆ式は自然体」論をぶった切ったものの、1巻を中心にたしかに3人が全くの自然体で過ごしていた時間もなくはなかったのである。それが徐々に、特に5巻前後から彼女らの会話劇に変化が現れるのだ。

 時間があったら詳しく書きたい。

 時間があったら。