星降りぬ

書かねば。

『ツッコまねば』という強迫観念 ~ 「女子高生の日常」を放棄した情報処理部 ~

 前回の記事では、ゆゆ式情報処理部の3人が意識的に「軽快で楽しい会話劇」を作り出している、それによって情報処理部の3人は「楽しくない」状況を積極的に回避している、ということを書いた。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 この記事では、「楽しく」あろうとする3人の姿勢をあたかも固定的なゆゆ式の性質のように書いたが、もう少し掘り下げてまとめたい。

 

 彼女らが避けようとしている状況については、紅茶氏の次の記事がわかりやすい。

monochromeclips.hatenablog.com

 

 紅茶氏は、情報処理部3人にとっての一番のディスコミュニケーションをこの「天使が通り過ぎる」こと、または「不慮の事故的な沈黙」と表現した。

 

いや、つまり。

「天使が通り過ぎるのを防ぎたい」んじゃないか、という話でして。

展開していくなかで再三言及されていた「コミュニケーション不全」というのは。

コミュニケーション不全を起こしたくない、という見えない力場の下にある以上。

逆説的に存在しないのではないか、と考えるのです。

正確には、連載初期を中心に。ふとしたきっかけで。

コミュニケーション不全に近い状況が生じているのは確かでしょう。

しかし、それを嫌うからこそ冗談としてそれを消化でき。

巻を重ねるにつれそれが洗練されていく、と解釈出来なくもないわけです。

(中略)

――で、「天使の門番」の話なのですが。

要は本当の意味で不慮の事故的な沈黙が。

彼女たちにとって一番のディスコミュニケーションなのじゃないかな、と。

紅茶 「『ゆゆ式と常識』の方式、という名を借りた戯言」『灰色の日々』

https://monochromeclips.hatenablog.com/entry/2018/12/26/235658 (2019年1月5日取得)

 

 「天使が通る」というのはフランス語の諺であり、ふと会話が途切れて場に沈黙が流れることを表わす*1。ふと会話が途切れて場に沈黙が流れるというのは、日常において決して特別な状況ではない。拾いにくいトークを投げてしまった、互いの感覚にずれがあり瞬時に答えられなかった、怒ったり悲しんだりと感情的になっている、もしくは単に話の種が尽きた。そして初期のゆゆ式のにおいても「天使が通る」タイプのディスコミュニケーションは大なり小なり見ることができた。

 ただ、情報処理部の3人はこれを嫌ったようである。5巻以降の情報処理部は自然体で散発的な言動をとるのをやめ、互いを楽しませるために「会話劇」とでも呼ぶべき技巧的な会話を見せるようになる。親友同士で日常をより高度に楽しむための、楽しいという気持ちへの不安定要素を排斥するための術である。

 しかし立ち返れば、技巧的な会話というのは「日常的」ではない。等身大の女子高生を描いていると評されたゆゆ式は、強みであるトークに歪みを抱えることとなった。

 

 顕著なのが、唯ちゃんのツッコミの変質である。

 彼女は作品に一貫してツッコミの役目を果たすが、そもそも彼女は「シャイ」である。1~4巻ではあきれまじりに、もしくは真顔でバッサリとゆずこのボケ(奇行?)捌くパターンが多く、意外かもしれないが大声でツッコむという描写はまずみられない。大声を出すとしたら下*2のように恥ずかしがって声が大きくなってしまう場合である。

 

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 もしくはこんなかんじ*3で、激しいボケ・ツッコみの応酬についテンパってしまったとき。

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 こういった状況ならば、まあ大きな声出しちゃうこともあるよなと理解に難くない。しかし、これが5巻ごろから様変わりする。次の画像はゆゆ式7巻よりp.33。

 

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 ご覧の通りゆずこのボケに対して唯ちゃんがものすごい勢いでツッコんでいる。周りに同級生がいるであろう教室で、恥ずかしげもなく大声を出している。この回最初のネタであるため会話の流れはわからないが、かといってド直球の下ネタというわけでもないし、ボケの連撃に翻弄されてパニクっているわけでもなく、つい大声を出してしまった、と考えられるような文脈が見られない。

 女子高生の「日常的な」会話に、このようなツッコミの必要性が感じられない。しかし5巻以降のゆゆ式では唯ちゃんの叫ぶタイプのツッコミが当たり前のように繰り返される。

 

 なぜ唯ちゃんがこのように振舞っているのかといえば、大声で勢いよく突っ込めばネタがひとつ成立するからである。

 ゆずこが無茶ぶりなボケをするのはいつものことだが、縁がほとんどツッコまない以上、これを拾うのは唯ちゃんの役割となる。もちろん拾わずに流したりバッサリ斬って捨ててもよいのだけれど、それをすると会話のテンポが悪くなる。ネタを生かすも殺すも唯ちゃんの一声にかかっているのだ。

 先ほどのページをもう一度見てみよう。わずか2コマでネタが成立している。すごい。ゆずこの突拍子なもしも話に間髪入れずツッコんでいる。しかもきちんとドレッシングをかけられるもの繫がりで返していて「ドレッシングかけるってなんだよ」などよりもずっと巧妙だ。そしてなにより早さと勢い。さすがに食い気味の「サラダかっ!」はゆずこの予想以上のツッコミだったのか耐え切れずに笑いだしている。

 より素早く、より巧妙に、より劇的に。会話劇をより楽しく盛り上げようとすればするほど、ツッコミは芝居がかったものとなる。自然体で振舞うことをやめた唯ちゃんの叫び声型ツッコミには「ツッコまねば」という強迫的な意思が見え隠れする。

 ゆゆ式を追い続けてきた我々は、もしかしたら違和感を持たないだろう。いつもの展開であるし、人によっては無茶ぶりにもきちんとツッコんでくれる唯ちゃんに対するゆずこの信頼の厚さや即座に会話劇をこしらえることができる情報処理部のコミュニケーションの円熟を感じ取るかもしれない。

 だが、女子高生の「日常的な」会話としては無理があるのだ。

 

 なお「会話劇」と作り出すことによる歪みは、ゆずこのボケ方にも表れている。8巻あたりをめくってみると面白いのだが、日常の会話の中から広げていくのではなく、「たとえば○○だったらどうする?」などの仮定形のネタが目につく。

 

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 順にゆゆ式8巻より、p.33, 49.。あえて扉絵をカットせずに引用したのでわかりやすいと思うが、各話の1コマ目から唐突に架空の想定を投げかけている。このほか「博士号を取りたい」とか「ワッフル落ちてこないかな」も8巻あたりである。

 偶発的な現実からネタを探して地道に膨らませるよりも、いっそ最初から「もしも」とありえない切り出しで始めたほうが会話劇を作り出しやすいのだろうか。

 

 以上のような状況を好意的に捉えれば、三人の会話に磨きがかかってハイコンテクストな次元に到達している、といえるだろう。一方、悪意をもって捉えれば「楽しくしなければ」、特に唯ちゃんに関しては「シャイ」という自身のキャラクターを捻じ曲げるほどの強迫的コミュニケーションが行われている、ともいえる。

 

 ゆずこがボケて、唯ちゃんがツッコみ、縁が笑う。この日常の女子高生離れした状況を3人は自身らの「日常」として選び取ったのである。

 

 

おまけ

 

 今回書いたことはずっと前から思っていたことだけれど、この度まとめようと思い立ったのは紅茶氏の記事に触発されてのことである。ぶん投げたものを勝手に拾って言いたい放題に騒ぎ、都合よく記事の引用までしちゃいました。感謝とお詫びを。

 また、「不敬罪」のところではこんな失礼な書き方をしているが、ゆゆ式を悪く言うつもりはない。むしろやっぱ三上先生すごいなと見直している。

 というのも、唯ちゃんのツッコミが激しくなったところで「ゆゆ式」という作品が崩壊することはないのだ。あくまで彼女らは互いを笑わせて楽しく過ごしたいだけ、2年生に進級して信頼も深まったゆえに会話劇が巧妙になっただけ、でいいのだ。あの3人の会話は、常識的でも日常的でも現実的でもないが、作品としてのビリーバビリティはいまだ損なわれていない。

 さらに蛇足だが、ゆゆ式オタクの多くは別にこのような情報処理部のコミュニケーションの変質に違和感を持っていない。ゆゆ式オタクは情報処理部の"common sense" に順応しているし、順応させられているし、三上小又は読者を順応させるだけの世界観(部室感?)を描いている。やっぱすごいと思う。