星降りぬ

書かねば。

壮大になにも起こらない「天気の子」① ~「善悪なんて尺度でオレたちは測れないぜ」編~

 「天気の子」をみて第一の感想を記してから3週間とすこし。買い忘れていたパンフレットも手に入れた。ひと安心である。

 あちこちでネタバレ全開のレビューが読めるようになった。ぜんぶを追いかける気なんてさらさらないが、目の前に流れてくるとつい読んでしまい、「あ~なるほどね」とか、「いやちがうだろ~」とか、ブツクサ言いながら腕を組んでいる。オタクなので。

 流れてきたなかのひとつがこちら。

 

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いちき「映画『天気の子』は少年と少女の間違いだらけの選択と恋、その果てを描いた子供に見せられない大傑作」(2019年8月12日取得) 

 

 これは「ラストシーン問題」に正面切って突っこんでいった正統派のレビューだろう。帆高がみずからの恋のために東京を水没させたことは、是か、非か。

 帆高の行動を「社会常識からみて」間違っているという。家出から発砲、陽菜の救出にいたるまで徹頭徹尾、帆高が「社会常識からみて」間違いつづけたがゆえに、東京水没という「社会常識からみて」間違った結末に行きついてしまった。「社会常識からみて」間違った結末を良しとする映画を夏休みに堂々と公開しているんだから、新海誠というのは恐ろしい監督である。というような趣旨である。
 新海誠が「『君の名は。』をみて怒った人をもっと怒らせてみたい」と語って世に放った本作の性格をよく捉えてた評だといえる。
 このレビューのほかに、社会常識を逸脱した主人公らの行動にお怒りのご意見から、東京を海に沈めちまうなんてスカッとしたぜ流石オレたちの新海誠、というような声まで、ラストシーンについてはいろいろな感想を見かけた。観客それぞれに訴えかけ、多様な感想を引き出せたというのは、新海誠のねらいどおりなのだろう。

 

 これに対して私はなんと感受性に乏しいことだろう、東京の水没を無感動に受け止めた。良い悪いはともかくとして、東京が海に沈んだのは当然の帰結としか思えなかった。
 ラストシーンが議論を呼ぶのは「社会常識からみて」という条件があるときに限られる。「社会常識からみて」という条件を取り去った時、帆高は、なにも、まったく、「間違い」を犯していない。もっといえば、帆高たちは、結果的に、なにもしていない。

 

 本作は、天気に干渉する能力にむしばまれた陽菜を帆高が救い、代償として東京が海に沈むという構造をとる。帆高は晴れを待ちわびるひとびとの思いを踏みにじり、陽菜への恋心を優先させた、ように見える。
 しかし舞台を整理をしてみればそんなことはない。「天気の子」の舞台は東京、雨が続いて晴れ間がないという異常が日常になってしまった東京である。ヒロイン・陽菜の晴れをもたらす能力は、ひとびとが金銭を支払ってでも手に入れたかった奇跡である。東京は、程度の差こそあれ、物語が動くまえから雨に閉ざされていたわけだ。

 新海誠がパンフレットでも述べているように、長きにわたって警告されてきた「気候変動」や「地球温暖化」は、とうとう私たちの日常となってきた。
 梅雨が明けてからの日本列島では災害級の猛暑に見舞われており、このお盆には「超」巨大台風が西日本を縦断していく。なんら対策を取らなかったら(取ったとして間に合わないだろうが)気候異常により私たちの生活はどんどん変えられてしまうだろう、というのはフィクションの話ではなく現実的な懸念事項である。

 「天気の子」の物語世界も、雨だか暑さだか、現象や程度は違えど「〇十年ぶりの」、「観測史上初の」、「昔はこうじゃなかった」が日常となった世界である。最終部では東京が海に沈むこととなってしまったが、異常な降雨が日常になったらいままでの東京じゃいられないわけで、極端な話ではあるものの、順当に予期できる結末ではなかろうか。

 むしろ特殊なのは、天気に干渉して快晴をもたらす陽菜のほうである。
 物語のなかでは、天気の巫女が太古からその身を捧げることで天気を調節してきたとされているが、これは天気を正常化する工程ではない。変わろうとする気候に介入して気持ちよい「正常」な特異点を作り出す作業である。本来の世界には人間が生活できないほど厳しい気候の土地はいくらでもあるし、逆にどれほど暮らしづらい環境でも(海に沈んだ東京にも)人間はへばりついて生活をしている。陽菜が人柱とならなかったせいで東京が異常気象に襲われたわけではない。異常気象を放置しただけだ。影響があったとして、多少進みを速めた程度だろう。

 

 気候は変わりゆくものであって、天気が異常であることは異常ではない。世界はもとから狂っている。これは作中の人物が明言しており、物語世界でもうっすらと共有されている認識である。

 例外は、東京にふった真夏の雪。あれだけは雨空が日常となった異常な東京においても異常であった。クライマックスで東京が「雪」に閉ざされた、というのであれば、帆高たちの選択が大きく世界に影響をもたらしたといえるかもしれない。だが、帆高が陽菜を奪い返しても東京は雨が続いただけ。それも、突如として津波が街を飲んだわけではなくゆっくりと海に蝕まれていくだけ。だから、せめて程度をすすめてしまったというくらい。
 そうすると帆高と陽菜は、世界に対した変化をもたらしてはいない。いったいなんの「間違い」を犯したというのだろう。誰が、どんな権限をもって彼らの行いを「間違い」と断じるのだろう。異常気象を放置しているという点では日本人の誰しもが同罪だ。帆高と陽菜だけが間違っているわけではない。

 陽菜はあのまま人柱になるべきだったのか? それとも陽菜が救われたうえで東京も救われるべきだったのか? なんの犠牲もなく異常気象がたちまちに収まるという都合のいい物語が「正しい」結末だったのか?
 大局的にみれば、異常な毎日を改変するか否かで少年少女があれこれ試み、ふとした事情からそれを途中でやめただけ。彼らが世界を「正常化」しなかったとしても誰も責めるものはいない。ただ、拳銃がゴミ箱にすてられていて、貧乏な女の子がはした金と引き換えにホテルに連れ込まれて、雨がざあざあと降り続いている、異常な東京がつづくだけである。

 

 「社会常識」という色眼鏡を外せば、「天気の子」は、壮大でありながらも、なにも起こらない物語なのである。

 では、この「社会常識という色眼鏡」にどう向き合うべきだろうか。

 新海誠は、意図的に帆高と社会常識を対決させており、背景や小道具にも毒々しいモロモロがちりばめられている。劇場に足を運んだものを刺激するために仕込んだ罠なのだから、おとなしく釣られて楽しまないのは損なのかもしれない。

 しかし困ったことに、主たる「天気の子」の視点人物は、帆高である。

 当の主人公である帆高がまったくこの「社会常識」に縛られていない。帆高は「社会常識 対 信念」というキリキリとした葛藤から「天気なんて狂ったままでいいんだ!」と叫んだわけではなく、主人公は常にまっすぐ信念に従って行動を続けているだけ。たまたま「社会常識」というジャマな壁にぶち当たり、それを全力ではねのけたまでである。

 あくまで帆高は突っ走っているだけ、一途に陽菜を想っているだけであって、「社会常識」に揺れ動くのは須賀や夏美といったオトナ側である。須賀というキャラクターは十分に魅力的で新海誠も入れ込んでいた様子であったが、帆高を中心に進んでいくストーリーにおいてはやはり脇役のひとり(障壁のひとつ)に過ぎない。


 帆高がまったくこだわりを見せていない「社会常識」に、なぜ我々ばかり固執する必要があるのだろうか? 物語はほとんど帆高を中心に語られているというのに、サイドストーリーにすぎない「オトナ側の事情」からしか「天気の子」を評価することはできないのだろうか?

 

 帆高たちの行動やショッキングなラストシーンを「善い」「悪い」でとらえるのは、自然な流れではあるものの、どうもしっくりこない気がする。主人公らの感情を無視してしまっているような気がする。もっと帆高たちの目線で物語を眺めなければならないような気がする。というのが個人的スタンスだ(別にこれ以外が悪いと言っているわけではない)。

 「天気の子」を鑑賞するうえでの立場表明みたいなものなのだが、これはあくまで前哨戦である。実際のところ、社会的な背景が強い本作を、「帆高たち目線」にこだわって鑑賞したときに何が起きるのだろうか。 

 お盆でヒマを持て余している皆様には、もうひと記事分、お付き合いねがいたい。

 

 次。 

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