星降りぬ

書かねば。

壮大になにも起こらない「天気の子」② ~「『トゥルーエンド』説に見る物語の欠落」編~

追記:2021年1月4日に大きく論の構成を変え、タイトルも変えました。

 

 

1.「トゥルーエンドっぽい」って、なんだ?

この記事は、② と入っているように前回の続きなのだが、読んでいただけただろうか。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

 読んでない? じゃあ読まなくていいよ。 

 主人公の帆高は、みずからの信念のままに道を選んで突き進んでいく、みずみずしい無鉄砲が心地よいキャラクターだ。いわゆる「社会常識」とか「善」とか「悪」とかに縛られずに物語を駆け抜けている。でも「社会常識 対 主人公」という構図は、主人公らをオトナ目線で表面的に眺めた評価であって、当人らの主観を無視している。それに、異常気象が悪化していくのは現代社会でも「天気の子」の世界でも既定路線のはずだ。雨が降り続いて東京が海に沈んじゃったって帆高たちだけに責を負わせられるわけじゃないし、帆高たちの行動や選択を社会的に「良い」とか「悪い」とかばかりで評価するのは違うんじゃないか?

                       

 ざっくりそんな話をしていた。

 「天気の子」を語るとき、新海誠がめずらしくアングラな場所を舞台にして反社会的な事物や行動を描いていることに注目する見かた、社会規範と帆高らを後押ししたい気持ちとの間で葛藤する須賀の姿を読み深める見かたなどがあるが、今回それらは脇に置いてみようという意志表明である。

 

 ところで「天気の子」は、公開直後から不思議な感想がみられた。

 曰く、これは「ゼロ年代セカイ系エロゲ」の「トゥルーエンド」だ、という。

 

cr.hatenablog.com

 

 「天気の子」の「原作」は、選択肢のえらびかたによって複数のエンディングが見られるノベル型ゲームであり、映画はゲームを何周かしてやっとみれるエンディングであるという。

 劇場版「天気の子」は劇場版「AIR」同様、大胆な構成となっています。というのも原作では3ヒロイン(家庭版では島の幼馴染が加わるため4ヒロイン)だった物を、陽菜ルートかつTrueエンドのもののみに再構築しているからです。その結果同じくメインヒロインであった夏美や四葉はあくまでサブやゲストキャラ扱いとなりました。

PS2版天気の子を俺たちは遊んだことが有る気がしてならないんだ。 - セラミックロケッツ!(2021年1月3日取得)

 

 もちろんそんな原作ゲームはない 。 

 しかし、妙にしっくりくる喩えだ。

 「天気の子」が「セカイ系っぽいね」という感想はもっともだ。帆高はセカイを見捨てて彼女をとるわけだから、そこまでは納得である。

 新海誠自身は「セカイ系」というものを深く意識して作品を作ってはいないという*1が、彼が作るものが「セカイ系」になってしまうという節がある。

 

 しかし「トゥルーエンド」とはなんだろうか。

 いくつもの分岐の果て。数々のバッドエンドとそこそこのヒロインエンドを超えた先。あらゆる可能性のすえようやくたどり着ける真の終着点。

 ふしぎと理解できる、この「トゥルーエンド」感はなんだろう。

 帆高が陽菜を救う選択をしたからトゥルーエンド? 結果陽菜を奇跡的に救えたから? 東京が沈むというぶっ飛んだオチだから?

 どれも弱い。このくらいは映画でも小説でも想定される範囲、よくある物語の展開だ。わざわざ「トゥルーエンド」なんて言葉は使わなくていい。

 「ゼロ年代セカイ系エロゲ」オタクのこじつけ厄介妄想?

 そうかもしれないが、その手のゲームはあまりやらない私でもこの喩えは納得できた。「ゲームを何周もやってようやく見れるエンディング」といわれて腑に落ちる何かが、この作品にはあるのである。

 

 この記事では「天気の子」 の「トゥルーエンド感」を論じよう。

 結論からいえば、セカイ系エロゲのトゥルーエンドに頻出の要素を備えているから「トゥルーエンド感」なわけではないと思う。

 「トゥルーエンド」として見ないと、この作品は物語として成り立たないのである。

 

2.感情移入できない主人公・帆高

 まわりくどいが、まずは主人公・帆高くんの話をしたい。

 新海誠自身は「天気の子」を「現代版の天空の城ラピュタ」と表現していた。8月9日にTジョイ新潟万代で行われた舞台挨拶での発言である。

 なるほど、突っ走って女の子を助けて、結果として夢の技術が詰まったラピュタを滅ぼしてしまう。「天気の子」と似ているといえなくもなくもなくもなくもなくもない。

 実際は似て非なる代物なのだが、ちょうどいいので両作品をぶつけながら「天気の子」の特徴を洗い出そう。

 

① パズーは正義だが、帆高は正しさの逆をゆく

 「天空の城ラピュタ」の愛すべき悪役ムスカ。パズーの前で本性を表わすのはラピュタに降り立った後となるが、観客からすれば冒頭の飛行船のシーンから一貫して悪役として姿が示されており、物語上はじめから、パズーは悪いオトナに立ち向かう健気なコドモというポジションに置かれる。

 対して我らが帆高くん。彼も冒頭からポジションが決まっている。

 

 「冒頭の船のシーンで、帆高は雨が降ったことを喜んだように見えました。彼はどのような気持ちだったのでしょうか?」(10代・男性)

 

「冒頭の船のシーンは、帆高の傾向や性格のようなものを描いたつもりです。『非常に激しい雨が予想されます。安全のため、船内にお戻りください』という放送がかかり、みんなが船の中に戻っていくんですが、そんななか帆高だけは逆方向に歩いていく。『この男の子は、人と反対の方向に行ってしまうんだ、大人に言われたことと逆のことをやってしまうんだ』ということを描きたいと思っていました。大雨に喜んでいるのは、島を出てきた解放感もあると思います。帆高はみんなが嫌がるような、危険だと思うようなことに解放感や喜びを感じてしまう。そういった、物語の行く末を示しているシーンになります」

 

『天気の子』新海誠監督に、読者の疑問をぶつけてきた!野田洋次郎への愛の告白(!?)から、夏美の就職先まで一挙に解答! - 映画 Movie Walker

(2019年8月15日取得)

 

 帆高はのっけから「人と逆方向のことをして喜んじゃう子」である。「正義」の側にはなれない主人公だ。

 雨の甲板ではしゃぐくらいならまだフォローの余地があるが、帆高の性格描写は徹底されている。

 理由はわからないが高校生で家出。とびだした先は近所の林やお寺ではなく船に揺られてウン時間の東京。行く当てもビジョンもなくネカフェでその日暮らし。金がなくなってきたら風俗店の事務所に突撃。明らかにヤバめのオッサンたち相手にバイトの面接。しかもめげずに複数軒。うっかり拳銃を拾うけれど届け出ずに持ち歩いたあげく人に向けて撃っちゃう。

 「無鉄砲」「衝動的」「世間知らず」「向こう見ず」

 コミカルな演出で中和をはかっているものの、高校生のやることとして度が過ぎている。一連の帆高の行動は私たちの感覚になじまない。

 しかしこれが今回の主人公・帆高くんだ。視聴開始5分にして「主人公に感情移入しづらい」という問題が発生しているが、とりあえず目をつむって次へいこう。

 

② 無鉄砲な帆高には、葛藤も喪失もない

 「天空の城ラピュタ」の名シーンは数多いが、パズーがムスカにまるめこまれ、シータをおいて里に帰る場面は白眉である。

 投獄されていたパズーは、突如シータが軍の調査に協力することに同意したことを一方的に告げられてシータから引き剥がされてしまう。わずかばかりの謝礼としてムスカに金貨を握らされて砦を飛び出したパズーは、道中で金貨を投げ捨てようとするものの、どうしても捨てられずに持ち帰ってしまう。

 突然の別れに納得できずシータを取り戻したいという気持ちと、これがシータのためであって労働者として自身の生活も考えなければならないという気持ちで葛藤し、現実的な選択肢を受け入れることと引き換えにシータとともにラピュタを追う夢を諦めてしまう。

 わずか数分間でセリフも少ないが、見事な心情描写だ。

 このシーンは盗賊団に合流してラピュタを目指すきっかけとなり物語の転換点となるが、同時に「失意→再起」の感情的なメリハリとしても機能している。信念と現実のあいだで悩む、とか、失ったものを取り戻すためにもういちど走り出す、とか、わかりやすい感情移入ポイントである。つづくラピュタへの冒険にむけて、観るものをぐっと引きつけている。

 

 で、帆高くんなんだけど。

 

帆高や陽菜は憧れのまま走り始め駆け抜ける少年少女であってほしい

 

帆高は家出をして東京に出てきますが、その家での理由を劇中では明確に語っていません。トラウマでキャラクターが駆動される物語にするのはやめようと思ったんです。映画の中で過去がフラッシュバックして、こういう理由だからこうなったんだっていう書き方は今回ではしたくないな、と。内省する話ではなく、憧れのまま走り始め、そのままずっと遠い場所までかけていくような少年少女を描きたかったんです。

(中略)

バッテリー切れを気にしないような人たちであってほしいと思いました。充電が残り数パーセントだからと立ち止まり、電源を探すようなことをしない人たち。僕自身はきっと慌てて立ち止まる人だし(笑)、多くの大人たちもそうだと思うんですが、自分にできないことだからこそ、彼らにはそうあってほしかった。ただ真っ直ぐに走り抜けていく人たちとたどり着くその先を、僕が目撃してみたかったんです。

 

2019年 「DIRECTUON INTERVIEW 新海誠」『「天気の子」パンフレット(第一弾)』「天気の子」製作委員会 

 

 うん、たしかに駆け抜けてる。立ち止まっている瞬間がない。

 陽菜を取り戻すために帆高が行動を起こすストーリーは、一見ラピュタのそれに近いが、感情の動きはいたって平坦である。

 陽菜に「晴れてほしい?」と聞かれた帆高はうっかり「うん」と答えてしまう。冷静に考えれば「セカイか、彼女か」の重大な選択であるにもかかわらず、帆高の返答はどうにも軽い。なんの葛藤もなく物語がスタート。

 陽菜がいなくなったあとの反応は?当然おどろいている。焦っている。陽菜の失踪に気づいた直後に警察がなだれ込み、帆高と凪は混乱のままに確保されてしまう。パトカーに乗せられる道すがら、陽菜にプレゼントをした指輪を発見し興奮して叫ぶ。パトカーに乗せられて状況が整理されると刑事にむかってこう迫る。

 

ふいに、胸の内側が燃えるように熱くなる。これは――怒りだ。猛然と腹が立ってくる。

「陽菜さんは……」僕はリーゼントを睨みつける。

「陽菜さんと引き換えに、この空は晴れたんだ! それなのに皆なにも知らないで、馬鹿みたいに喜んで……!」

また涙が迫り上がってくる。僕はずっと泣いてばかりいる。それが情けなくて、僕は思わず膝を抱える。

「こんなのってないよ……」

口から漏れ出た言葉もまるきり子どもの駄々のようで、僕はますます泣けてくる。

 

2019年 新海誠『小説 天気の子』角川書店

 

 陽菜がいなくなったことを状況としては正しく理解しているものの、あくまで怒りが優位である。陽菜がいなくなったことをあきらめて受容しているわけではない。だからパトカーから降りればこうだ。

 

「……あの、刑事さん」

僕は思い切って声を上げた

「……なに?」

リーゼントが振り返り、冷ややかな目で僕を見下ろす。僕は意識して息を吸う。パトカーのなかで考えた言葉を、思い切って口に出す。

「陽菜さんを――探しに行かせて欲しいんです。俺、今までずっとあの人に助けられてきて、今度は俺が助ける番なんです。見つけたら、ちゃんとここに戻ってきます。約束しますから――」

 

2019年 新海誠『小説 天気の子』角川書店

 

 帆高のなかでは、一瞬たりとも陽菜の存在は失われていない。手を伸ばせばきっと届くはずの存在であり、あとは手を伸ばすか伸ばさないかの問題である。あきらめたわけではなく、あきらめるつもりもないのだ。

 新海誠の宣言通り、ひたすら駆け抜けるキャラクターとして動いているわけだが、これではスタートもゴールもない。漫然と走っているだけだ。

 ここで一回ガッツリ凹んでくれていたら、一晩独房でおとなしくしていて失意に沈んでくれていたら感情移入もしやすかっただろう。しかし再起もなにもなく、ただただ無鉄砲にものをいわせて突っ走っていってしまう。

 こうなってしまうと、なぜ突っ走っていくのかと訊かれたら「彼はそういうキャラだから」と説明するほかない。

 

ラピュタは冒険活劇だが、天気の子は

 ラピュタに比べたら「天気の子」の冒険のスケールはあまりに小さい。

 たしかにパズーも帆高も、飛んだり跳ねたり走ったりぶっ放したりしているわけだが、派手なアクションを見せてムスカ相手に立ち回るパズーはいかにも「冒険」をしているのに対し、帆高のそれはもっぱら「逃走」である。バイクの後ろに乗っけてもらったり、須賀や凪に盾になってもらったりと帆高以外の活躍が目立ち、いちばんがんばっている姿が「山手線の線路を走る」。せっかく拳銃を撃つシーンもあくまで帆高の感情の発露を象徴的に示すものであって、鮮やかな状況の打開になっているわけではない。

 「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである」という言葉はもはやオタクの教養だが、ぶっ放せば何でもいいというわけでもなかろう。

 ここまでガムシャラに突っ走ってきた帆高にとって、陽菜の救出劇は持ち前の無鉄砲を発揮できる絶好のチャンスだったはずだ。冒頭から無鉄砲は途中で更生するわけでも挫折をするわけでもなく最後まで来てしまった。ならばそのまま痛快アクション劇にすれば、主人公の個性が活きたというものである。

 それなのに帆高の活躍はいまひとつ。とうとうラストシーンまで、観客は帆高の無鉄砲さに乗ることができない。脇役のほうが光ってしまっている。

 

 ここまで無理やり「天空の城ラピュタ」をぶつけながら「天気の子」の帆高を眺めてみたが、いいたいことはただ一つ。

 「無鉄砲に駆け抜けていく帆高についていけない」

 もちろん部分的に共感できるシーンがあったり、ただ突っ走っていく姿が爽快というのはあるかもしれないが、構造的に、帆高に寄りそって物語に没入していけるようなつくりになっていない。

 

 帆高の目線で見れば、「天気の子」はセカイを見捨てて彼女を選び取る話である。

 セカイを見捨てたからといって、なにかが変わるわけではない。狂った天気はそのままひどくなっていくだけであり、人はかわらず東京にへばりついて生活している。前回の記事に記したとおり、帆高たちの行動は「良い」とか「悪い」とか評価できず、改めて評価されることすらない。

 巨大な社会からみれば子どもは非力であり、子どもの選択など無価値である。

 「この世界がこうなったのは、だから、誰のせいでもないんだ」

 こんなことばが脳裏をかすめる。

 しかし、彼らは知っている。彼らだけが知っている。

 

――違ったんだ、と、目が覚めるように僕は思う。

違った、そうじゃなかった。世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。そして僕たちは願ったんだ。世界がどんなかたちだろうとそんなこととは関係なく、ただ、ともに生きていくことを。

 

 2019年 新海誠『小説 天気の子』角川書店

 

 クライマックスでは帆高と陽菜が再会し、二人の手で世界を変えたのだと思いを確かにする。この世界が自分たちの選択の結末であるということを。晴れ空の可能性を捨てて、帆高と、陽菜と共にありたいと祈った形であるということを。

 不確かな社会に、自分たちの存在の、行為の爪痕を残したと胸を張って、二人でともに歩いていく。変わりゆく現代社会に生きる、新しい世代の少年少女の決意……。

 

 もうこのへんの心情が、全ッ然 伝わらねえのよ

 

 映画ではモノローグ入ってるし、小説には書いてあるし、アタマじゃそういう話なんだなって理解できるんだけどさ、全ッ然気持ちがついてこないのよ。

 帆高おまえ突っ走ってただけじゃん、なんも悩んでないしろくに試練もないしオッサンたちを振りのけて走ってただけじゃん。

 「自分たちで確かに選び取った」ということが大切なのに、どうしてそれを選び取ったのか、それを選び取ることがいかに大切なことなのか、という帆高の行動原理や背景がろくに見えてこない。「帆高の家出の理由が描かれていない」というのは単体ではナンセンスな批評だが、たしかに過去編でも書いておいてくれればまだわかりやすかったかもしれん。成長も葛藤も喪失もない物語ってなんなんだよ。

 「天気の子」は「君の名は。」でみられた劇的なカタルシスを生み出すことに失敗しているが、このあたりの構造上の問題が大きな要因といっていいだろう。主人公の視点で物語に寄りそうことがむずかしい以上、脇役である須賀の心情や舞台背景である貧困と犯罪の街・東京に焦点が当たりがちなのも納得である。

 

3.よし、「トゥルーエンド」ということにしよう

 ということで、「天気の子」を主人公・帆高の心情によりそって追っていこうとすると失敗に終わる。そもそもそういう造りになっていない。帆高の物語は描かれていないのだ。

 ここで選択肢は4つある。「キラキラしてきれいな映画だったね~」と脳みそを停止させるか、「感情移入できない!理解できない!」と拒絶するか、「本作は現代日本の負の側面をモチーフに取り込んでおり、~」とメッセージ性に視点を切り替えて解釈をするか。

 それとも「トゥルーエンドだった」ということにしてしまうか、である。

 

 ようするに丸投げだ。物語として必要なものが描かれていないからこっちで想像するしかない。本作において、葛藤、後悔、喪失感など、主人公のネガティブな感情や各場面での行動の意図という描かれてしかるべきものがろくに描かれていない。

 しかし、これが「何周目のエンディング説」ならきちんと補完されるのである。

 晴れた空を見上げながらこれでよかったのかとモヤモヤする気持ち。初恋の相手である陽菜が天に消える喪失感。なにもできずに島へと変える無力感。「すでに観た」エンディングであるならば、みな省略してもなんら問題ない。

 ゲームの三周目となれば途中の会話もほぼスキップボタンで飛ばしてしまうだろう。プレイヤー側も帆高とともに物語を「駆け抜けて」いるのだ。何度失敗してももう1周と次のユーザーデータを作って新たな「選択」を始める。これこそが過去の自分を乗り越えた「主人公の成長」である。

 

 「天気の子」にはすべて「正解」の選択肢を選び、「正解」のエンディングにたどりついた帆高のみ描かれており、なぜ「正解」を間違うことないのか、なぜ帆高はずっと駆け抜けているのか、が描かれていない。この違和感に「バッドエンドはもう見たから」という理屈づけは、とても都合がよいのである。

 逆をいえば、数あるバッドエンドを想像で補い前提として見なければ、前述のとおり主人公の物語としての「天気の子」は崩壊するだろう。

 そもそもの「セカイ系」的設定や、タイムラプスを多用した物語の省略表現も相まって、見事な「ゼロ年代エロゲのトゥルーエンド感」となっている。

 幻視痛のような補完だ。狙って作っているわけでもないのによくもまあニッチな層にハマるものである。

 さすがオレたちの新海誠だぜ。

 

4.「立ち止まらない少年」という空想上の生きもの

 さて、「トゥルーエンド説」は裏ワザ飛び道具なので一回忘れよう。きれいに辻褄が合うとしても所詮後付けの理屈だ。根本的な話に立ち返ろう。

 新海誠は「天気の子」でなにを描きたかったのか。

 

 答えは単純明快。ご本人が明言している通り「立ち止まらない少年」だろう。

 新海誠は「帆高が『天気なんて狂ったままでいいんだ!』と叫ぶ作品を作りたかった」といっているが、帆高らの姿は血の通った少年少女の姿というよりも、どうにも新海誠が見たいと望む「空想上の少年少女」であるようだ。

 

自分にできないことだからこそ、彼らにはそうあってほしかった。ただ真っ直ぐに走り抜けていく人たちとたどり着くその先を、僕が目撃してみたかったんです。 

 

 また、舞台挨拶では、「『君の名は。』では三葉に自分を重ねていたが、『天気の子』では須賀に自分を重ねている」という発言をしている(あと、最近老眼が始まったらしい)。

 本作のなかで、須賀は(主人公を食う勢いで)魅力的なキャラクターに仕上がっているが、これも無関係な話ではないだろう。心情描写に注ぎ込むエネルギー配分が、少年少女からオトナ世代のキャラクターへと傾きつつある(おそらくこれは新海誠の転換期の特徴になるのだろう)。

 血の通った存在ではなく、大人たちがこうあってほしいと願う、少年少女の「象徴」として描かれた帆高。これはもはや主人公なのだろうか?

 暴論だが、これまでの新海作品で帆高にいちばん近い存在は「ティアマト彗星」だと思う。どちらも世界のかたちを大きく変えてしまった存在であるが、世界を変えなくてはならない理由があったわけではない。ティアマト彗星は物理法則にしたがって地球に降り注いだまでであり、帆高は陽菜をもとめて自分の気の赴くままに駆け抜けていっただけ。結果としては災厄の元凶ではあるものの、のびのびと空を、常識のスキマを駆け抜けていく姿は、ひとびとにある種の感銘をもたらしている。善悪や因果をこえて、見るもの触れるものを大きく揺さぶる存在。

 

 その存在自体が架空なのである。チート能力だ。

 実際の人間は、だれしも悩み、迷い、間違い、さぼって、ぐだって、すぐに立ち止まる。立ち止まらないためには、パズーのように良き仲間にしっかりと励まされ、助けられながら行動をするか、暁美ほむらのように自分をズタズタに傷つけながら目標に縋りつくか、といったところだろう。

 

 「天気の子」は明け透けな現代社会批判と「セカイ」系的文脈によりさまざまな解釈と評価を得ているが、物語の根幹となる心情描写やストーリー性を備えていない。

 もしも「天気の子」の舞台が異世界だったとしたら、どのような評価を受けていただろう。その世界の常識を無視してやりたい放題に突き進んでなにかを成し遂げたとしても、それは「なろう」系異世界転生モノと何ら変わらないじゃないか。

 

 しかし、たぶん、想像なのだが、新海誠にとって「貧困と犯罪」は舞台装置にすぎないものであって、「現代社会への問題提起」とか「硬派な映画づくりへの転向」とかそういうのではないはずなのだ。

 これまでも新海誠は作品の中にさまざまな舞台装置を取り入れてきた。孤独な宇宙で戦う人型巨大兵器、並行する世界と飛行機、街を滅ぼす彗星隕石と人をつなぐ組紐、都会(を象徴するビルや電車)と田舎(を象徴する空や緑)。

 舞台装置に過ぎないそれらは案外作りこまれておらず、SF的設定やティアマト彗星の軌跡、電車の音などにネット上でツッコミが散見されるし、「天気の子」でも警察や児童相談所の描写、青少年の保護に対する手続きうんぬんの観点から今後指摘が相次ぐはずである。

 これら舞台装置は新海誠の趣味であり、興味・関心の対象であることには違いないだろうが、主題ではない。「ほしのこえ」や「君の名は。」をSF映画と呼ぶことへの違和感を想像してもらえればわかりやすいだろう。

 あくまで作品の中心は「葛藤」や「心の距離(つながり)」など、個人の心情である。

「天気の子」を見てきた当日の感想 - 星降りぬ

 

 これは、私が「天気の子」を公開すぐに映画館で観たときの感想なのだが、どうやら新海誠は本当に「現代社会への訴えかけ」をテーマに据えていたらしいと明らかとなった。現代を鋭く捉えた作品としてはメルクマーク的作品となるだろうが、時代を超える名作にはなりがたいだろう。

 今回は「メッセージ性重視の作品」ということとしても、いったい次は何を描くつもりなのだろうか。

 「ちょっとがっかり」と言わざるを得ない。

 

 

追記

 筋書きも主旨も変えないまま、グッと感情がわかりやすくなる方法がある。

 陽菜の目線をまぜてやればよいのだ。

 脇目もふらずに駆け抜けていく彼の姿勢に感化され、陽菜自身も自分のために祈っていいんだと気づく。この陽菜サイドの「社会のため→自分の信念」の変化を描けば、帆高の無鉄砲にも陽菜の心の支えとして価値がうまれる。

 なにも叫ばせたり長々モノローグを差し込んだりする必要はない。ホテルからグランドエスケープまでのあいだに、一瞬だけもういちど陽菜が社会の幸福に縛られていることをちらつかせておけば、十分に彼女の変化の暗示となる。

 もっとお手軽な方法もある。

 これも舞台挨拶で新海誠が語っていたのだが、公開された「天気の子」、実は重要なセリフがひとつ削除されているという。

 それは帆高が走りながら叫ぶ、

「あのとき、オレはどうして!!」

 というセリフだ。

 新海らの判断としては無くても通じるだろうということだったが、悪手だったと思う。これは帆高が作中ではじめて、明確に自分の判断を悔悟するセリフだったのだ。

 ふつうなら無くても後悔は読みとれるだろうが、私たちは帆高の思慮の浅さを一時間どっぷりと見せられている。だから帆高が本当に後悔しているのかはどうにも自信がもてないし、かえって「あの無鉄砲な帆高が」と観客に印象づける効果がねらえたはずだ。

 走るシーンに加えるのが蛇足なら、指輪をひろったときに呟かせておけばよい。

 「あのとき、オレはどうして......!」