「天気の子」を見てきた当日の感想
「天気の子」を見てきたのにパンフレットを買い忘れた。
考察オタクとしてひどい失態である。
私は映画館からずいぶんと遠いところに住んでいるので、映画を見に行くだけでも一日がかりの旅行であって、ちょっと戻って買いに行くということができない。
なのでこの記事は、一回見ただけの記憶を頼りにしたためた、妄想を多分に含む、答え合わせが済んでいない、そしてネタバレ全開の文章である。
追記(2019年8月16日)
一か月後の感想はこちら。こっち読んで。
stars-have-fallen.hatenablog.jp
「天気の子」は過去作品とくらべて、ずいぶん異色のテイストでしたね。
代表作「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」などは自己完結的でどこか輪郭の薄い個人を描く物語であって、「君の名は。」では一歩進んだ人と人とのつながりを描いていましたけれど、「心の距離」ということばに象徴されるようにあくまで人物の内面描写に力を入れていたわけです。
それが最新作「天気の子」では、主人公たちをとりまくやるせない現実や社会の不条理、理解し合うことができない大人と子供など、なまなましい現実世界の存在が前面に押し出されていました。
"個人対個人" ではなく、"個人対外界" という新海誠の新しい方向性や意欲がみてとれる冒険的な作品だったかと思います。
後述のとおり、その冒険がうまくいったとはいいがたいんですけれど、まず内容は楽しめますし、攻め続ける新海誠のこれからが楽しみに感じられる作品でした。
好きなシーン。ラブホでお泊りのシーンです。
あったかいお風呂と、ごはんと、ベッドがある。そしてなんと今日はお友達(好きな子)も一緒! たとえ場所がおかしくても、警察に追われていても、ごはんはレトルトであったとしても、明日の寝床が定かでないとしても、あの子たちにとっては楽しいお泊り会なんですよね。
あの瞬間だけはささやかな幸せと安心感がそこにあって、無邪気にそれを楽しんでしまう。「かわいそう」な子どもたちだから、これ以上の幸福をうまく想像できないから、危うくていびつな幸せがいつまでも続きますようにと祈ってしまう。
あの子たちの無垢で楽しそうな表情と、いまにも現実に引き戻されるであろうという緊張感と。刹那を懸命に生きるあの子たちが象徴的に描かれている、すばらしいシーンだったなと思います。
ただね、開始すぐで占い師のオバチャンが物語のあらすじほぼほぼ喋っちゃうのはどうかと思いますよ。ラブホのベッドでの会話が「せやな」で終わっちゃうじゃないですか(笑)
あと凪くんがかわいい。
以上が普通の感想。
さて、ここからは考察のオタクらしくいこう。
見てのとおり、新海誠は「天気の子」でかなり大胆な描写に取り組んでいる。
しかし、方向転換が大きすぎて、明らかにうまくいっていない点や、これは観客に伝わらないだろうなと予想できる点が散見される。以下ではこれらについて指摘する。
① 表現手法から考える「天気の子」の問題点(新海誠の課題)
主人公が自己のなかでもがき苦しむのではなく、社会にとびこんで奮闘し、反発しながらもがいて自分を探していく。「天気の子」にみられる新しいテイストは、新海誠がこれまで手癖としてきた表現手法と相性がひどく悪いように思われる。
まず、映画を見始めて30分くらいから違和感を覚えた。
いっこうに物語に引き込まれないぞ? と。
原因は構成や演出など、いろいろな面から指摘できるのだが、ここではモノローグの問題を挙げよう。
本作は基本的に主人公・帆高の視点で進んでおり、アニメーションに加えて帆高自身の心境を独り言ちるモノローグが随所に挟まれている。
東京をひとりで歩いて感じたこと、やさしさに触れて心が動いたことなどを話す醍醐虎汰朗の声がどうにも邪魔に感じる。最初は演技が悪いのかと思ったが、よく考えればそれ以前の問題である。
本来、モノローグの多用はアニメーション作品にご法度なのだ。小説でないのだから「なにをしているか」「なにを思っているか」は、キャラクターの動作や表情、会話をもって表現するのが筋である。背景や小道具などを用いても良い。
「私、気になります!」と詰め寄るときにキラリと輝くアメジスト色の瞳は、千反田えるの心のスイッチの象徴であり、物語が動き始める予感を視聴者に与える。希美とみぞれの通じ合えない心を、表情、立ち位置、絵本による寓意、アンサンブルの音色まで用いて表現した「リズと青い鳥」はアニメーション作品の特性を最大に生かした見事な仕上がりであった。
(はぁ~~~~京アニ......)
これまでの新海作品でモノローグが表現技法として成り立っていたのは、対外的に表出されることのない静的な感情、もしくは自分でも掴みかねている形があいまいな感情など、個人の内部を描くことに特化していたからである。起伏に乏しい感情をわかりやすく表情や動きに表出させることは難しいし、そもそも自分でも整理がついていない想いを、だれに話すでもなく、悩みながらすこしずつ言語化していくその過程の描写こそ価値がある。
だが、「天気の子」は違うのだ。今回新海誠が描いているキャラクターは、すでに実社会のなかで生き生きと動いている。雑居ビルの片隅でうずくまる孤独や、新しい居場所を見つけて家事に奮闘する様子は十分にアニメーションで描けるものだし、実際にすでに新海誠はそれをアニメーションだけで十分に表現できていたと思う。
しかし、そこにいつもの癖でモノローグをこまごまと挿入してしまった。無意識だったのか不安だったのか視聴者への配慮なのかはわからないが、輪郭のたしかなキャラクターや実態ある社会の描写をモノローグに頼るようでは、なろう系異世界転生アニメと何ら変わらない。本作において新海誠お得意のモノローグは、キャラクターを殺し、物語世界への没入を妨げる悪手であった。
......みたいな「天気の子」における表現のミスマッチは、とうに次のレビュー記事で的確に分析されていた。上映翌日にして良質なレビューだとおもうので、ぜひ読んでみてほしい。
葛西祝「『天気の子』レビュー」 IGN JAPAN(2019年7月20日参照)
( https://jp.ign.com/tenki-no-ko/37225/review/ )
モノローグ問題は上の記事より丁寧に書いてみたとはいえ、これだけだと私の文章の新規性があぶない。もうひとつ上の記事で触れられていない表現のミスマッチをあげておこう。ズバリ、緻密にキラキラと描くという新海誠渾身の絵のタッチが「天気の子」においてうまく機能していない。
見過ごされがちなわずかな光の彩度をあげて、なんでもない公園や田舎町、薄暗い夕方や梅雨の街をドラマティックな空間に変貌させる表現は、過去作品において高く評価されており、新海誠のアイデンティティのひとつともいえる。これはただ綺麗だという話ではなく、ありきたりな日常に特別な意味をあたえてくれるという点で価値がある。
だが、悪天候が続く東京、猥雑とした歓楽街や下町が舞台となる本作において、それらを細かくキラキラと描いても意味がない。
「雨はみんなきらいだけれど、東京はごちゃごちゃしてるけど、それはそれで良いところあるんだよ?」的な話ではないのである。
東京にふり続く雨はひとびとにとって憂鬱で不快な存在と位置付けているのだから、キラキラではなく暗くどんよりと描かなければ雨を疎ましく思う人々の気持ちと結びつかない。新宿の裏路地だって混沌として恐ろしい場所なのだから、より汚くぐちゃぐちゃと描かねばならなかったのだ。帆高がたおしたゴミ箱の空き缶をひろう惨めなシーンでは、ボランティア的に勤しむ青年的な清潔感すらでてしまっている。
そのうえ、陽菜がもたらす晴れの日差しと空の魚は「キラキラ緻密」で合っているのに、このとおり他がぜんぶ綺麗すぎるので、このギャップが死んでいる。空が晴れたことの喜びが伝わってこないのだ。
「言の葉の庭」では映像を見終わったあとに、日常にあふれる光の粒すべてが美しく、いとおしく感じられるような鑑賞者の変化が起こるのに対して、「天気の子」の晴れの感動はあくまで主人公目線のものであり、物語世界から広がりを持たない。
こんな感じで、今回新海誠が「描こうとしたもの」に対してこれまで強みとしてきた表現手法があちこちで不適合を起こしている。守りに入らず挑戦的な作品であったことはファンとして嬉しい限りだが、浮き彫りになった課題は致命的である。
② 「貧困と犯罪」は本作のテーマなのか?
さてふたつめ。これは先述の記事に対するささやかな異議申し立てである。
葛西氏は記事のなかで「天気の子」という作品を「貧困と犯罪のボーイミーツガール」と表現しているが、これはすこし危険なのではないかと思う。
たしかに「天気の子」では、親のいない子供、家出少年、拳銃、性風俗、暴力など、現代的な社会の暗部が描かれている。夏休みの時期に上映されるアニメ映画としてはずいぶんと過激であり、本作の特徴として取り上げたい気持ちも理解できる。
しかし、たぶん、想像なのだが、新海誠にとって「貧困と犯罪」は舞台装置にすぎないものであって、「現代社会への問題提起」とか「硬派な映画づくりへの転向」とかそういうのではないはずなのだ。
これまでも新海誠は作品の中にさまざまな舞台装置を取り入れてきた。孤独な宇宙で戦う人型巨大兵器、並行する世界と飛行機、街を滅ぼす彗星隕石と人をつなぐ組紐、都会(を象徴するビルや電車)と田舎(を象徴する空や緑)。
舞台装置に過ぎないそれらは案外作りこまれておらず、SF的設定やティアマト彗星の軌跡、電車の音などにネット上でツッコミが散見されるし、「天気の子」でも警察や児童相談所の描写、青少年の保護に対する手続きうんぬんの観点から今後指摘が相次ぐはずである。
これら舞台装置は新海誠の趣味であり、興味・関心の対象であることには違いないだろうが、主題ではない。「ほしのこえ」や「君の名は。」をSF映画と呼ぶことへの違和感を想像してもらえればわかりやすいだろう。
あくまで作品の中心は「葛藤」や「心の距離(つながり)」など、個人の心情である。
「天気の子」でも中心となるものは変わらないとみるのが自然だろう。
新海誠自身も公開当日に掲載されたインタビューでは次のように述べている。
――『天気の子』の主人公たちも10代です。先の見えない時代を生きる10代に対してエールを送る気持ちがあるのでしょうか。
うーん、スッと簡単に説明できないことではあるんですが……。まずひとつ現状として、世の中がだんだん不自由になってきている感覚がありますよね。それは僕個人が感じている部分でもあるし、周囲でもメディアでも、日本の将来についてあまり楽観できないという話は多い。何かが、今あまりよくない方向に向かっているという感覚は、結構な数の人が共通して感じていることだと思います。でも、子どもにはその気持ちを共有してほしくないんです。
例えば、僕らは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」と感じて、ある意味、右往左往しています。でも、今の子どもたちにとっては、それが当たり前なわけですよね。ですから「異常気象だ」なんて彼らは言わないし。『天気の子』は雨が降り続いている東京が舞台ですが、帆高も陽菜も、雨が降り続いてることについて何もネガティブなことを言わないんですよ。周りの大人たちやニュース番組はそういう話をしているんですけれど。そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました。
――『天気の子』は、40代の須賀や、須賀の事務所で働く大学生の夏美といった、帆高よりも年長のキャラクターによって作品世界に広がりが出ていると思いました。キャラクターの配置について、気に掛けたことはありますか?
先ほど、帆高の叫びを描きたいという話をしましたけれど、その叫びってどういう叫びかというと、帆高と社会の価値観が対立したときに生まれた叫びなんです。そこを描くためには、社会に属している、あるいは属そうとしているキャラクターを描く必然性がありました。須賀や夏美もその一部です。
大人を描くときには、岩井俊二監督がおっしゃっていたことをいつも思い出します。岩井さんは「大人っていうのは、だいたい子どもの役に立たないんだよ」って言うんです。これは本当に、そうだよなって思うんですよ(笑)。僕も子どもにとっては、役に立たない大人だし。でも自分としては須賀みたいな、役に立たない大人のほうを愛してしまう部分がありますね(笑)。
「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟 - Yahoo!ニュース
(2019年7月20日参照、太字は引用者による)
近年の異常気象も「今の子どもたちにとっては、それが当たり前」であり、悲観的な捉え方に「共有してほしくないんです。」と語っているが、この考え方は「貧困と犯罪」にも広げることができる。
つまり、帆高や天野姉弟にとって東京での暮らしが汚れていること、頼りになる親族がなくて苦しいことは日常であり、当たり前のことである。帆高や天野姉弟の生活は自身らにとって決して憐憫の対象ではない。という話である。
ラブホの風呂やサービスではしゃぐ夜は、帆高らにとって、もう大丈夫だからもう何も足さずに何も引かずに放っておいてくださいと神に祈るほど、楽しく幸せなひと時なのである(大人の目線でみれば、あっけなくて幼稚な快楽と戯れているかわいそうな子どもにしか見えないとしても)。
また、「帆高と社会の価値観が対立したときに生まれた叫び」を描きたいのであって、社会そのもののゆがみを描きたいわけではない。この点に限って言えば、敵対キャラクターも必要上置いているだけである。
本作における社会の冷たさや不条理感は、「主人公らへの障害の一形態」と抽象化してみておくのがよいだろう。居場所がないなかで大人たちに反発する帆高の葛藤や、帆高と陽菜の心のつながりなどが作品の中心であると考えるのが自然な流れだ。
(あれ、「天気」の設定の存在感は......?)
なんだけれども、「貧困と犯罪」は、舞台装置として強すぎる。
「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」という言葉をみるに、「貧困と犯罪」を作中に登場させたこと、舞台装置として使ったこと、少年少女から叫びを引き出す道具として使ったことは、怒られる覚悟があるようだ。
だが、すでに葛西氏のレビューで陽菜たちの「晴れを売るビジネス」が売春の暗喩であるという考察がなされている(確かにそうすると天気の設定と合理的につながるんだよね)ように、「貧困と犯罪」が舞台装置とか映像倫理の話とかを超え、現実の犯罪や貧困とむすびつけて議論されたり、「貧困と犯罪」という観点から映画を読み解かれたりするおそれがある。
帆高と陽菜は世界こそ変えてしまったものの、社会に生きる大人たちの在り方を変えたわけではない。これはこれで面白いポイントだが、そこだけが取り上げられてしまうことはないのか。帆高や陽菜がどのように行動していくか、青少年の目線からどのように世界と対峙していくかという、彼ら自身の物語として受け止められるのではなく、逆に、現代社会の構造や大人の都合から、帆高や陽菜の存在が定義されているのだというふうに解釈される恐れはないのだろうか。
「天気の子」が「貧困と犯罪のボーイミーツガール」であると解釈されることは、「天気の子」ではなく「貧困と犯罪の子」として広まっていく可能性は、想定内なのだろうか。
「じつは『大人に消費される子供たち』が今回のサブテーマです!」とかパンフレットに書いてあるのであれば、この話は杞憂である。買い忘れたので私にはわからない。もしもそこまで新海誠の計画通りなのだとしたら、「天気の子」は相当な問題作である。
しかし、あんまり想定していなかったなら悲惨である。新海誠はいまや日本中が注目するクリエイターである。うっかり火遊びが過ぎたために、新海誠はまたしても「私の意図しない受け取り方をされた」と釈明に回ることとなるかもしれない。コミックウェーブまで炎上するなんてことは、あってはならないのだ。
ちょっと気がかりなのだが、パンフになんか乗ってたら誰か教えてほしい。
なんかムズムズしてきたから、自分でももう一回見に行くと思う。
(後記)
とまあ、収まりがつかないので文章にしましたけど、私だってこんな捻くれた見かたじゃなくて、正面から作品と向き合いたいと思うんです。ただ、本作と共通性をもつであろう「星を追うこども」をまだ見てないんですよね。
Blu-rayボックスは持ってるんですよ。
今から見ます。
(追記)
クソマジメな心配したのはバカだったんじゃないか。
天気の子が「貧困と犯罪の子」になるんじゃないかと心配してたのにまさか「エロゲの子」になってるなんて
— ..1△1.. (@x1o1x) July 22, 2019
ゼロ系世界エロゲ、よくわかんないんで勉強しておきます。