星降りぬ

書かねば。

「君の名は。」タイトル考 ~「夢の喪失」モチーフへの再挑戦~

 もうすぐ新海誠の最新作「天気の子」が公開されるときいて焦っている。

 「君の名は。」について書こう書こうと思っていたネタを活字にすることなく、だらだらと今日まで来てしまったからだ。来たる劇場公開に備えて「君の名は。」が地上波で放映されているこの日であるが、もう「君の名は。」を語るならば今日しかない。

 なんとか「天気の子」の公開までに供養をさせてほしい。私が書いておきたいんだ。

 

 書いておきたいこと、それは「君の名は。」というタイトルについてである。

 忘れそうになるが、「名前」はこの作品においてタイトルにされるほど重要な役割を果たしてはいない。

 確かに「おまえはだれだ」や腕にかかれた「みつは」の字、「君の名前はあああああ!!」という絶叫、ラストシーンでの問いかけなど、作品の印象的な場面には「名前」が登場する。ただ、これはあくまで演出の域を出ない。

 名前を唱えることで入れ替わるわけでも、名前によって災厄がもたらされたわけでも、名前を知っていたから二人が再会を果たしたわけでもない。物語の構造や展開に「名前」ははっきりとしたかかわりを見せない。「夢」や「口噛み酒」、「ティアマト彗星」がストーリーに不可欠な要素として機能しているのに対して、「名前」の役割は極めて虚ろである。

 

 ではなぜ演出の域を出ない「名前」がこれほど強調されるのかといえば、「名前を問う」という行為が、それこそ演出として、純粋に強力だからだ。

 乱暴だが間違っていないはずである。まず、新海誠だって似たようなことを言っているのだから。

 

実は『君の名は。』というタイトルは頭から候補の中にあったんです。ただそれは有名な作品があるからっていう気持ちが大きくて、候補の上のほうに上がってこなかったんです。でも、去年の12月に東宝の今年の映画作品のラインナップの発表があるからタイトルだけでも決めなければいけなくて、もう一回脚本を読み直したんです。そうしたら、「君の名前は」ってふたりとも何度も叫ぶ訳ですよね。もう言ってる、こればっかり言っていると(笑)。

一同:(笑)。

新海:だからやっぱりこれで良いんだと思いました。タイトル先行で物語を書いた訳ではないけど、作中で何度もお互い問いあっているんです。「君の名は」で断絶してしまう個所もあれば、「君の名は」から始まる個所もあると。であるならば断絶するというところと、ここから始まる必ずしも問いではないというところから、句点を付けて少し差別化を入れました。20代以下の、場合によっては30代以下の方はこの作品で初めてこのタイトルに触れるという人も多いと思いますが。

 

全ての人たちに楽しんでもらいたい、そう思ったからこそ生まれた『君の名は。

――新海誠監督にインタビュー | アニメイトタイムズ

http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1472453958

(太字は原文ママ

  

 雑にまとめるならば、「君の名は。」というタイトルになったのは「ふたりが名前を問いあうシーンがなんども出てきて象徴的だったから」ということだ。

 もうすこし理屈っぽく攻めてみよう。なぜ何度も繰り返されるのか。なぜ象徴的なのか。「雲のむこう、約束の場所」と比較しながら「名前を問う」という行為について考えたい。

 

 三葉に会うため飛騨をおとずれた瀧は、変わり果てた糸守と三葉の死という「現実」を突き付けられてしまい、その瞬間から「夢」の世界での三葉とのつながりが断絶されてしまう。

 夢から醒めたのをきっかけに、急速に夢の世界の忘却が起こる。何かがあったはずだという確信と、どうにも思い出せないという焦燥と、漠然とした喪失感。

「三葉(瀧)の喪失」は「夢の喪失」と同義である。

 

 さて、更新がまれな本ブログのことを覚えていただけているならば、この「三葉の喪失」は以前に記した「雲のむこう、約束の場所」の構造と近いことがお分かりいただけるだろう。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

  

 「雲のむこう、約束の場所」のラストシーンでは、夢の世界に閉じ込められたサユリが現実世界で目を覚ますことで、夢の世界での感情を忘却してしまう。夢の世界でサユリは、ヒロキの存在だけを生きる希望として空虚な世界を耐えていたというのに、そのヒロキへの特別な感情がまもなく消えてしまうと悟り、恐怖し、喪失の瞬間に涙する。

 夢から醒めることで夢の世界における相手への感情をわすれ、現実世界で喪失感をあじわう。「君の名は。」のこの展開も新海誠がかねてから描いてきたモチーフの反復のひとつ、といえる。

 

 しかし、先の記事で示したとおり「夢の喪失」モチーフには重大な問題がある。きわめて感情移入をしにくいのだ。どれだけ大きな感情がそこにあったとしても最終的にはすべて忘却によって無かったことにされてしまう。掴みどころのない喪失感だけが残ってすっきりとしない。どれだけいい夢を見ても、顔を洗って髪をとかしつけているころには思い出せなくなってしまう、あの時のように。

 「雲のむこう、約束の場所」において、新海誠はこの「夢の喪失」を真っ向から映像化した。そのため当然に、この作品はなかなか共感しづらい難解な仕上がりとなっている。

 対して「君の名は。」は、明らかに「夢の喪失」モチーフを引き継いでいるものの非常にわかりやすい作品である。瀧や三葉の感情は明快で、多くの観客に共感され、受け入れられた。

 一般にこのわかりやすさは「アニメーションやキャラクターデザインが過去の作品よりも強化され、人物が生き生きと動いているから」とか「RASWIMPS の楽曲が物語とリンクして盛り上げているから」などと説明されるが、説得力に欠ける。たしかにこれらは新海誠の世界にこれまでなかった活力を与えたが、構造の問題点を根本から解消するものではない。キャラがよかろうが音楽がよかろうが、わかりにくいものはわかりにくいままである。

 

 ではなにが「君の名は。」を明快な作品としているのかといえば、まさしく「名前を問う」という行為の力だと考える。

 「雲のむこう、約束の場所」での「夢の喪失」は、目が覚める寸前までのサユリの独白と、目覚めた直後のサユリの涙で表現された。しかし前述のとおり、これではヒロキやわれわれ観客には、「夢」を共有できない「現実」の人間には、伝わらない感情である。

 「大丈夫だよ、目が覚めたんだから。これからぜんぶ、また。」というヒロキのセリフも、冷めた目で見れば、サユリに寄り添えていない素っ頓狂な発言である(「夢の喪失」モチーフの構造的問題点に忠実であるからこその無理解である)。

 

 これが「君の名は。」では、こうなる。

「あの人は誰?」

「忘れたくない人」

「忘れたくなかった人」

「忘れちゃダメな人」

「君の名前は?」

「なまえはあああああ!!!!!」

 

 「夢の喪失」はあまりにも急速である。だからそこに含まれる「関係の喪失」や「感情の喪失」のように不定形なものを、ゆっくりはっきり伝えるすべはない。

 これに対して「名前を問う」という行為は鮮やかだ。

 自分がなにを忘れたのかはうまく表現できない。それにどのような名称がついていたのかも思い出せない。だが、そこに「名前」があったことだけは確かとなる。

 名前を忘れるというのは、逆にいえば忘却しかけている存在に名前があったということ、つまり、その存在があいまいで不定形なものでなく、単語によって他と峻別して認識されていたという事実を呈示する。名前の喪失は「漠然とした喪失」ではなく「確乎とした喪失」となるのだ。

 永遠にその喪失感を覚えていられるわけではなく、事実、瀧や三葉も大人になる頃には「ただ、何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも、長く、残る」という「漠然とした喪失」に移行してしまうわけだが、すくなくともあの瞬間だけは、あの瞬間にたしかに存在していた強い喪失感には、「名前」というカタチが与えられるのだ。

 また、思い出せない名前が事物ではなく「相手の名前」であったというのも効果的である。

 「名前」はその人の存在をそのものとして表現するものであり、それが思い出せないというのは人間関係やコミュニケーションにおいて致命的である。たとえ親しい人間でなくても、会ったことがある人間の名前を思い出せないというのはどうにも気まずいものであり、必死に思い出そうとするのも無理がない。まして、大切だったはずの人間の名前を思い出せないというのは、危機的状況である。名前を思い出せないときの切迫感は、非常に共感しやすいだろう。

 

 要するに、新海誠は「雲のむこう、約束の場所」で伝達を放棄した「夢の世界の喪失」を「名前の喪失」に置き換えることで、夢でのつながりの失った瀧と三葉の焦燥を、万人が共感しうる感情たらしめることに成功したのである。

 「君の名は。」は、新海誠の、過去のモチーフへの再挑戦である。

 バッドエンドと誤認された「秒速5センチメートル」のモチーフにリベンジし、明確な再出発の描写を加えたことで後味よい作品にしあげたように、「雲のむこう、約束の場所」で難解なままとなった感情の切迫を、名前を求めて問うという行為に込めることでモチーフの構造的問題点を克服し、みごと「夢の喪失」を大衆に理解させたのであった。

 

 と、いうように「君の名は。」と名前を問う行為には、作品に普遍性を与えて世に訴える力がある。ひとつの演出として鑑賞者目線で文章をまとめたが、瀧や三葉にとっても、ゆびのすき間からすり抜けていく互いの存在をなんとか留めるための、あとかたもなく消えたなにかのかたちを確かめるための、この作品を印象づける切実な行動である。

 「君の名は。」というタイトルは、本作品にふさわしいものといえるだろう。

 

 

 

追記 ①

 こう見ると、逆に二人がつながりを失う前の「名前」の扱いがおもしろいですね。

 たとえば、本作の前半、ふたりが夢の中で頻繁に入れ替わっているころ、RADWIMPSの「前前前世」が物語を加速させるころに、瀧が三葉のノートに書いた

「 お ま え は だ れ だ ? 」

 いちおうこれも「名前を問う」行為であって、三葉は瀧の腕に「 み つ は 」と書き込んで応答するんですけど、この場はそれっきり。その後もなんどか入れ替わりが起こっているものの、ここで「名前」を得たことで二人の関係が変わるわけではありません。

 名前や社会的地位、所属集団などを介さずとも心身が深く結ばれた「あの男(女)はああああ!!」の関係です。

 名前以前に、互いの身体、人間関係、生活という、通常ならば絶対に手に入れることがないものを共有しているわけですから、いまさら「瀧くん」「三葉」なんて名前を呼ばう必要がないのです。

 

 

追記 ②

 「名前を問う」演出の多大な効果を前にして些末な話ですが、ささやかな批判を。やっぱり物語の筋とノータッチすぎだと思うんですよね。

 名前を問う描写を反復するわりにはその必要性がない。特に最後の「「君の名前は」」はあまりにもわざとらしい。

 新海監督は先に挙げたインタビューで、新しい関係の始まりを表現したかった的なことを述べていますが、どうもテクにはしった感がしますね。

 

 

追記 ③