星降りぬ

書かねば。

「雲のむこう、約束の場所」ラストシーンについての考察

  「君の名は。」の大ブームを記念して、「雲のむこう、約束の場所」が駅前のちっちゃな劇場でリバイバル上映されると知ったとき、私は、半分この作品を銀幕で見れることに興奮しつつ、もう半分は雪辱を果たす気分で、意気揚々とチケットを買った。

 雪辱いうのも、それまでこの作品をよく理解できていなかったのだ。例のごとくきれいな映像と、しっとりとしたモノローグが延々と続き、状況は転々と変わるものの、次の瞬間には唐突に幕切れ。秒速や言の葉の庭だってわかりやすい筋書きとはいえないが、この作品はそれにもまして掴みどころがない。はじめて見たのは3、4年くらい前のことだったかと思うが、私はさぞマヌケな顔でスタッフロールを眺めていたことだろう。

 だからじっくりと見なおす機会を待ち望んでいたのだ。

 

 そして改めて鑑賞し、新海誠はアタマおかしいんじゃないか? と思った。

 どうにもこの作品はやばい。以下には、私が感じた「雲のむこう、約束の場所」のやばさをまとめる。結論から言うと、私は、この作品のオチがニンゲンの理解の範疇を超えていると考えている。

 

 ざっとあらすじを書く。

 本作品の主人公、ヒロキ(藤沢浩紀)と友人のタクヤ(白川拓也)は、海峡を挟んだ敵国にそびえる謎の巨塔に強いあこがれを抱き、独学で飛行機「ヴェラシーラ」の製作を進めていた。この企みはひょんなことから浩紀が思いを寄せる同級生、サユリ(沢渡佐由里)にもばれてしまう。三人は未完成の白い飛行機と、はるか遠くの天蓋を貫く巨塔を前に、いつかあの塔まで飛ぼうと約束をする。

 それと前後して、サユリはふしぎな夢を見るようになった。それは、もしかしたらあったかもしれない、別の選択肢をたどった宇宙、いわば「並行宇宙」で彼女ひとりが彷徨っている夢である。夢はしだいに身体を蝕み、ついに彼女は眠り続けたまま目覚めることなく、意識は「並行宇宙の夢」に閉じ込められてしまう。

 サユリの身体は、ヒロキとタクヤに知らされることなく東京の大病院に搬送され、そのショックから二人はヴェラシーラを完成させないままに別々の道をたどりはじめた。しかし、サユリと「並行宇宙」、そして謎の巨塔のつながりが明らかになると、二人は数年の時を経て再びヴェラシーラの仕上げに取りかかる。すべてはあの日の約束を果たすために。サユリの身体を塔のもとへと届け、彼女を目覚めさせるために。

 

 ……だいたいこんなかんじか?

 まずもって、舞台設定が既に難しい。 「並行宇宙」ってなんだ? ユニオン? 南北分断? 開戦? 謎の物理学者エクスン・ツキノエ? 「彼女を救うか、世界を救うか」????

 初めて見たうちには、このあたりの設定を飲み込むだけで脳みその大部分を持っていかれるだろう。しかし、オチのニュアンスを味わうだけに絞るならば、これら雑多な設定に深く立ち入る必要はない。

 大切なのは、次の三点のみである。

① サユリは、夢の世界にひとり閉じ込められている。

② ヒロキとサユリは前々からとても親しい関係にあったが、夢の中でより強く惹かれるようになった。

③ サユリの身体を塔に届けることで、彼女は夢から解放されて目を覚ます。

これだけだ。

 学生時代のヒロキは明らかにサユリへ片思いをしており、サユリもヒロキに対しては好意的に接している。たぶん放っといてもくっつくレベル。

 だがサユリの「夢」は、二人の素朴な好意を尋常ならざるものへと変えていく。夢の世界にとらわれたサユリは、孤独と恐怖に苛まれながらも、記憶の中のヒロキの存在と、ヴェラシーラで塔まで飛ぶという約束を心の支えにしてひたすら耐え続けていた。この彼女の想いが呼び寄せるのか、ヒロキもうたた寝をした瞬間に彼女がいる夢の世界を共有することができた。ただしそのつながりが微弱なためか、またはヒロキが途中で目覚めてしまうためか、互いの気配を感じながらもなかなか巡り合うことができない。探し、求めあいながらも、あと少しのところで切れてしまう、もどかしい時間が続く。ヒロキの心も、もともとサユリの失踪が刺さっていたためか、いつしかこの「サユリがいる世界」の夢に引きずられてしまうようになっていた。

 大切なのは、「ヒロキとサユリは現実世界でまったく接点を持たないまま、夢の世界では互いをつよく求めあう関係になっていた」ということである。サユリにとってヒロキとの約束は、虚無の世界に残された唯一の希望であったし、ヒロキからしてみれば「世界の中心」と形容するまでに入れ込んでいて、しかも苦い青春の象徴にもなってしまったかつての片思い相手が毎晩枕元に立つわけである。互いの存在がどれだけ互いの精神を蝕んでいたか、まったくもって想像がつかない。

 これは現実的、肉体的には一切接触のない、精神純度100パーセントの恋愛感情だ。秒速5センチメートルでも似たようなことを書いた記憶があるが、こんな感情を表現するに「恋愛」などという凡庸な表現では少々役不足だろう。「崇拝」、「精神汚染」、「信仰」、「依存」、こんな、おどろおどろしい言葉のほうが、かえって似あうかもしれない。

 

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 サユリの病変のおかげで二人の関係は異常なものとなってしまったわけだが、あくまでこれは、夢限定の話である。夢からはいつか目覚めなければならない。

 

 さて、ここからが本題

 読者諸賢は「すっごくいい夢を見ていたはずなんだけれども、目覚めたらなにが楽しかったのかすっかり忘れてしまった」「夢の中ですごいことを思いついて起き上がってからしばらくウキウキしていたのに、顔を洗っているうちに思い出せなくなってしまった」などという記憶はないだろうか。なにかすごく大切なことを忘れてしまったような気がするが、なぜ大切だったのかすら思い出せない。昼食を食べるころには、素晴らしい夢を見た、という事実さえおおかた忘れているものである。

 ヒロキとサユリは夢の中で特別な感情を築いたが、サユリを夢の世界の孤独から救うためには、夢から目覚めさせて現実に連れ戻さねばならない。これは即ち、夢の世界でのふたりの絆や想いを忘却することを意味する。サユリの「なにかを失う予感」というのはラストシーンではっきり示されているとおり、この忘却を指す。

 

 問題はこの「忘却」である。

 ここまでの内容を映像から読み取って理解するのは、なかなかクセがあるものの、まだなんとか付いていくことができる。あの滔々と続くモノローグやら夢の世界でハトを追いかけるという抽象的極まる描写やらから二人の想いを拾い上げて上記の内容を推測するというのもなかなかキッツイ作業であるが、「ああ、この『忘却』が今回のオチで感動ポイントなんだな」とアタマで理解することは、まあ、まだなんとかなる。

 しかし、その感動ポイントに「共感して、感動できるか」という段になると、もはや簡単とか難しいとかの話ではなくなる。論理的に、不可能に思われる。

 だって、そうでしょう? 忘れちゃった感情に、どう共感しろっていうの?

 本作のラストシーンで、サユリは無事に夢から解放されて現実の世界に目覚めた。その瞬間、夢のなかでサユリが危惧していた通り、「夢のなかの自分」が抱いていたヒロキへの異常なまでの想いは、きれいさっぱり忘れてしまった。その喪失の衝撃は、サユリの涙となって表出する。ここまではわかる。でも、これにどう感動しろというのか?

 夢から目覚める寸前でサユリはこれから失うものとその大きさを自覚する。忘れちゃう、忘れちゃう、いやだ、忘れたくない~~~!!と思いがこみ上げて来たる瞬間にむけて場面を盛り上げていく。しかし、その昂揚の最高潮は、「あ、忘れちゃいました(笑)」だ。

 そもそも想いの「喪失」と書いたが、これは「夢のなかのサユリ」が「夢のなかのサユリの想い」を喪失する、という話である。現実世界のサユリだけ見ていれば、彼女は何も「喪失」なぞしていない。ただ眠りから目覚めただけであり、これからまた現実世界を生きていくだけの話である。いちおう涙は流しているが、なぜ自分が泣いているのか、その本質は自身でも理解することはできない。「私たちの、夢での心のつながりが、どんなに特別なものだったか」なんて、だれにもわからなくなってしまう。「夢から目覚めた自分」は「夢のなかの自分」に100パーセントの共感することができないのだ。

 この様子を見せられて、視聴者はどこに感動すればよいのか。「あ~あるよねそういうこと。なんで忘れちゃうんだろうね」くらいは共感できる。

 しかし、それまでだ。これ以上の共感は創造されない。サユリが目覚めたとたんに夢の世界はすべて失われる。ラストシーンに至ったとたんに、そこまで盛り上がってきた物語はすべて無かったことにされる。サユリ自身もその喪失の重みを理解できないのだし、視聴者だって視聴者自身の夢の喪失すら理解ができないのだ。

 本作のラストに据えられたサユリの喪失に、視聴者が共感できるわけがない。したがって、視聴者は混乱のうちにスタッフロールを眺めるしかないわけだ。マヌケ面で。

 

 「雲のむこう、約束の場所」がやばいのは、この一点である。この作品は「『感動すべきポイントが参照できないという状況』そのものに感動せよ」と視聴者に強いているのである。論理的に、そういう状況が発生しうる、ということは理解できるものの、それを中核に据えて作品をひとつ作ってしまう新海誠というクリエイターは「ヤバい」というほかない。

 

 この「感動すべきポイントが参照できない状況」をラストシーンに据える、というのは脚本上のご法度といってもよいのではないだろうか。

 異世界の冒険を終えた主人公が現実世界に戻ってくる拍子にすべてを忘れてしまう、という筋書き自体はありふれたものであるが、たいていは何かしら別のオチがつく。

 具体的には、「ダメダメだった主人公は冒険を経て成長し、記憶こそなくしているものの、帰ってきた現実世界では自信をもって生活を送れるようになる」とか、「夢のなかの人物と現実世界で再会して、そこから新たな関係が動き出す」(あれ、これって「君の名は。」じゃないか?)、とか。どこかで見たこと、読んだことがあるストーリーだろう。

 興味深かったのは、同じ時期に劇場でやっていたハリーポッターシリーズの「ファンタスティック・ビースト」である。この作品でも、ノンマジ(非・魔法使い)の男が魔法の冒険に巻き込まれた末に忘却魔法をかけられる、という記憶抹消のシーンがラスト付近に置かれていた。

 しかし面白いことに、ここは感動ポイントとして据えられたものではない。忘却魔法によって大冒険の記憶を奪われた哀れなノンマジがマヌケ面で日常生活に戻っていく、という「喜劇」なのだ。悲劇として成立しえないのだから、そのように処理するにほかはない。

 

 しかし「雲のむこう、約束の場所」は、新海誠は、このパラドックスをそのまま視聴者に突き付けている。

 あの作品のラストは、だれにもわからないのだろう。

 

 

あとがき

 ヒロキは泣くサユリにまたこれから関係をつくっていこうなどと慰めの言葉をかけているが、果たして彼らは、夢のなか以上の関係を、現実世界で築いていくことができるのだろうか。作品冒頭には不穏なモノローグが一つ差し込まれているし、小説版には後日談がはっきりと書かれているらしいが、正直この点については考えを深めてもあまり面白くない。ヒロキの最後の言葉を、これからの関係の支えとして、二人の新たな「約束」として、その可能性に賭けるほうが、まだ救いがあるといえよう。

 

 仙台のちいさな劇場で「雲のむこう、約束の場所」のリバイバル上映がなされたのは去年の12月、つまりこの記事の構想を持ちはじめてから、ゆうに半年が過ぎてしまった。せっかくだからと「君の名は。」のBlu-rayディスクが発売前にまとめた。

 

追記。 2019年6月30日

 ずいぶん放置したが、本記事はつぎの記事の下準備として書かれたものである。

 上に記した「夢の喪失」モチーフの問題点は、「君の名は。」において、見事に克服されている。ぜひ、あわせて読んでいただきたい。

 

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Wordのルビ「右縦寄せ」の謎

 ちょっと用があって、過去に作ったWord文書をいじっていたらこんなものを見つけました。

f:id:kagami_sensei:20161203032055p:plain

 

 「配置」の部分にある 「 右 縦 寄 せ 」という選択肢。

 

 なんだろうなーと不思議におもい、新しい文書ファイルで(古いファイルは変に壊したくない)この機能を試そうとしたところ、

f:id:kagami_sensei:20161203032235p:plain

 

あれ?

 

……無い。

 

 はい、この「右縦寄せ」は現在のWord 2016には存在しない機能です。

 もともとの用事を放置して、ググったりMicrosoftのサポートに電話したりと3時間ほど調べたところ、「右縦寄せ」はWord 2007くらいまでは実装されていたものの、Word 2016ではなくなってしまったことがわかりました。

 ルビの配置をそれぞれ比べてみると、次のようになります。一目見てわかるとおり、「右縦寄せ」は、“文字の右側に縦書きでルビを振る” というもののようです。

f:id:kagami_sensei:20161203032423p:plain

 ただ、Word 2016でもさっきみたいに(Word 2007以前の環境でつくった)古いファイルを開けばちゃんと「右縦寄せ」が表示されるわけで、ウラ機能としてちゃっかり残っています。そしてちょっと手間ですが、Word 2016で新たに「右縦寄せ」を含む文章をつくることも可能でした。

 

 Microsoft Wordのルビ機能は、ルビ機能として単体で存在するわけではなく、数式などでみるような特殊な文字の並べ方を指定するための「数式フィールド(EQフィールド)」を使いまわしたものです。

 たとえば、適当にルビ付き文字をつくった後に「フィールドコードを表示」を選ぶか、「Alt」と「F9」を同時に押すかをしてみてください。次のように表示されるはずです。f:id:kagami_sensei:20161203032620p:plain

  暗号のようなものが表示されました。これがルビの正体だそうです。

(比較のため、元の文章「氷を」とフィールドコードを上下に並べています)

 文字の配置は「\* jc2」の部分です。「jc2」は、配置のさせ方の2番、すなわち「均等割り付け2」を意味しています。先の配置の比較の図にもすでに書いておきましたが、この数字をいじれば、ルビの配置を変えることができます

 一般的にはもう設定できない「右縦寄せ」も、配置の5番「jc5」に割り振られています。試しに「jc2」を「jc5」に書き換えてから戻してみてください(選択して右クリックから「フィールドコードを非表示」、もしくは再度「Alt」+「F9」)。

 

 ね、「右縦寄せ」になったでしょう?

 

 「右縦寄せ」について調べても出てこなかったので、自分でまとめちゃいました。互換性を保つためか、Word 2016でもひっそりと生き残っていますが、基本的にはもう表立って指定できなくなってしまった設定です。いつ完全に削除されてしまってもおかしくありませんので、今後は使わないほうが無難かもしれません。

 その他「数式フィールド」については、すでに様々な方がまとめてくださっていますので各自おググりいただいて、そちらを参照してください。

ブログ、始めました

 改めまして、こんばんは。かがみと申します。
 初めてブログというのを作ってみました……いや、そういえば初めてじゃないですね。たしか中学だか高校だかの時に、部活の友人に誘われてつくった覚えがあったような。前略とか、絵文字にあふれた日記帳とか、パステルカラーの内輪向け自己紹介ページとか。

 あまり思い出したくないモノが色々ありましたので"ブログ"というものから距離を置いていたのですが(あと初回設定めんどくさいし、Twitterのほうが楽だし)、映画「君の名は。」を見たら長文を書きたい欲がわいてしまい、重い腰を上げてみました。星が降ってしまったのですから、仕方のないことです。

 すでに三篇の記事が上がっており、最初のふたつは「秒速5センチメートル」、最新のものは下に挙げる「君の名は。」の感想文となっています。

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 今後については、あいかわらず批評チックな文章を書き綴るのか、日記のような扱いになるのかはまだ決めていません。ただ、ブログ設立の理由が理由ですので、もうしばらく新海誠にからんだ記事が並ぶことと思います。もうしばらくお付き合いください。

 なお当ブログの内容は、思いついたことを、チラシの裏やTLに流されていく呟き、ローカルのTXTファイルに打ち込んだだけではなんか惜しいからまとめてみただけ、言ってしまえばオープンな自由帳みたいなものでして、あまり深い思索に基づくものではないということ、だれに向けたものでもないということを言い逃れしておきます。
 なにか問題があれば、認識を改めたり、書き直したり、削除したりと検討しますのでコメントなどで気軽におっしゃってください。必ずそうするとも限りませんが。

 また「かがみ」という名はこのブログにおけるハンドルネームとなっています。IDも "kagami" で取りたかったのですが当然もう使われていましたので、「言の葉の庭」の雪野先生をイメージして「せんせい」と足してあります。あまり深い意味はないのですが、日本の古典文学も好きなのでその手の記事もいつか書けたらいいですね。

 

 それでは、ずいぶん遅いあいさつとなってしまいましたが、なるべく放置しないようにがんばりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

かがみ

秒速5センチメートルは、「バッドエンド」か?

 勢いでブログを作って2記事目。ひきつづき新海誠の代表作「秒速5センチメートル」の話をしたい。前回の記事は読んでいただけただろうか。

 

stars-have-fallen.hatenablog.jp

 

  読んでない? じゃあムリに読まなくていいですよ。

 要するに、秒速は ”神格化された明里との埋まらない距離” を描いた作品であるという話をしていた。貴樹はたしかに明里に恋をしていただろうが、彼女との距離がひらくにつれて、明里の存在と雪原での思い出は神格化にちかいレベルで美化がなされた。人間としての明里に恋をしているのではなく、神聖なるあの日の思い出、幻影に恋をしているのである。これではもはや、貴樹の明里に対する感情は、恋愛よりも「崇拝」といったほうが近いかもしれない。そんな内容である。

  さて、この秒速5センチメートルであるが、かねてより観る者の心を深く抉る、いわゆる「鬱アニメ」として知られていた。

 純粋で美しくもはかない恋の思い出を巧みに切り取った「桜花抄」となにも得るものなく空っぽのまま大人となり、自身を摩耗させるだけの日々を送る「秒速5センチメートル」の対比は凄まじいものがあり、特に後者は、青春が思い出となり心の弾力を失いつつある20代~30代男性が抱える、漠然とした不安や劣等感、虚無感と見事に共鳴するだろう。美しいキスはより美しく、残酷な現実はより冷淡に描く、新海誠の映像美は物語のインパクトをさらに強めており、彼にしか築き上げられない芸術世界には熱狂的なファンがついていた。

 このファンの一部で薄らぼんやりと共有されているのが、今回話題としたい「秒速5センチメートルは、バッドエンドの物語である」という認識である。

 

 流れ的にいうまでもなく、私はこの「バッドエンド論」に首をひねっている。

 たしかに第三章「秒速5センチメートル」はやり場のない閉塞感に鬱屈とした貴樹のつらい日常が描かれており、ハッピーエンドには程遠い雰囲気である。でも、もうちょっと考えてみてほしい。

  話を簡単にしよう。もしも、秒速5センチメートルが「明確にバッドエンド」ならば、どうなるか。

  無情な時の流れによって貴樹は冴えない大人の一員に成り下がるも、どこか幼いころの初恋が胸に引っかかったままで、駅のホーム、交差点、すれ違う人のなかに明里の姿をさがしてしまう。「もう一度会いたい。」貴樹の強い念がつうじたのか、桜舞う春のある日、かつての通学路であった踏切で、彼は、美しく成長した明里とすれ違う。しかし、一瞬の反応の遅れから遮断機と電車にさえぎられてしまい、ふたたび線路の反対側が見えるようになったころには明里の姿はなかった。来た道を戻り必死になって探すも、もはやどこにも見つからない。貴樹はがっくりと膝をつき、みじめに嗚咽を漏らした。

  これならば、紛うこと無きバッドエンドである。見つけられたが明里に忘れられていた、とか、彼氏と楽しそうに話してて近寄ることすらできなかった、とかでもいい。明里に対する想いが一方的に空回りし、なんの救いも得ることができなかった貴樹、まさしく悲劇というほかない。

 ところがどっこい、本作の最後はこうなってはいない。
 踏切で明里とすれちがった貴樹は、電車の過ぎ去った線路の向こうに彼女がいないことを確認する。追えば間にあうだろう。

 しかし、彼はふっと笑みを漏らし、くるりと前へ向き直るとそのまま歩み去ってしまう。これはどういうことなのか。

 解釈の可能性はひとつではない。

 ようやく心を縛っていた幻影を「むかしの美しい思い出のひとつ」として整理する決心がつき、新たな、彼自身の人生を歩み始める、そんな心持ちの変化が現れた描写なのか、または、明里がいまは彼女自身の生活を送っていることを静かに悟り、そっと身を引く刹那を描いたのか。もしくは、もう貴樹にとって現在の明里がどう生活しているのかなどどうでもよいのかもしれない。彼が崇拝しているのは想い出の中の明里、神聖なる幻影であるところの「過去の明里」であって、いまさら世俗的で神秘性の欠片もない「現在の明里」になぞ魅力を感じない、そういった捉え方もできる。

 いずれにせよ、「ふっと微笑んで歩き出す」というのは、安直なバッドエンドとはちょっと食い違う表現なのだ。この微笑みの中に、私たちは彼の決意を、救いを、考えを、これからを、読み取ることができる。
 ハッピーエンドというわけではない。しかし、この一瞬に貴樹の思いが詰まっており、かつその結末が明示されないだけ、物語の幅が広がって味わい深いものとなる。わかりやすいバッドエンドで物語を締めないおかげで、私たちは、貴樹の「明日」を思い描くことができる。

 

 つよく言い切れば、「秒速5センチメートル」は決してバッドエンドではない。「秒速5センチメートル」は、貴樹が「明日」へ踏み出すまでの過程を描いた物語なのである。

 最後に、畏れながら新海誠監督がこの作品に寄せたメッセージを引用して、記事を閉じたい。

我々の日常には波瀾(はらん)に満ちたドラマも劇的な変節も突然の天啓もほとんどありませんが、それでも結局のところ、世界は生き続けるに足る滋味や美しさをそこここに湛(たた)えています。

現実のそういう側面をフィルムの中に切り取り、観終わった後に、見慣れた風景がいつもより輝いて見えるような、そんな日常によりそった作品を目指しています。

コミックス・ウェーブ・フィルム秒速5センチメートル』公式サイトより
新海誠監督 本作に寄せて」

http://www.cwfilms.jp/5cm/director/index.html(2016年10月2日取得)

 

 

遠き ”明里” を追う ―「秒速」をみて―

 ブログ開設のあいさつもなく、ちょっと秒速について語りたい。

 いまを時めく映画監督、新海誠の代表作のアレである。 

 

秒速5センチメートル [Blu-ray]

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 私がはじめて秒速を見たのは、映画「言の葉の庭」が公開された年の秋のこと。「言の葉の庭」ですっかり魅せられた私は、実家のテレビを占拠して新海誠の過去作を一気に鑑賞した。そのときの私が記した秒速の感想文が、いまもテキストファイルで残っている。

その名も、「届かぬ愛の呪縛と非情な優しさについて」

……鑑賞直後の感傷がにじみ出ていて、かなり痛々しい。

とはいえお蔵入りもなんか惜しい。わりとしっかり書いてるし。手直し、というかほぼ書きかえる勢いだが、どうにか公開して供養したい。

 

―「秒速5センチメートル」をみて―

 

 主人公・遠野貴樹は「残酷に優しい男の子」である。

 いきなりなんだと思うかもしれないが、なんということもない。ニセコイの一条楽、化物語阿良々木暦あたりを想像しておいてほしい。ハーレム的なラノベや漫画でもよく見るタイプの、典型的な主人公のキャラだ。

 彼らは、誰に対しても優しい。だから、女の子の好意は自然と集まるものと相場が決まっている。つねに女の子を侍らせて歩く、天然の誑し。

 たとえば、上にあげた阿良々木君。みずからの名を冠するハーレムで何人侍らせているのかはもう数えるのも億劫だが、『化物語 上』の「まよいマイマイ」では、のちの彼女・戦場ヶ原ひたぎを、こんなふうにガッツリ失望させている。

「阿良々木くんは、ひょっとして、私だから助けてくれたのかしら?」

「…………」

「でも、そうじゃなかった。そうじゃなかったみたい。そうじゃなくて、単純に、阿良々木くんって……だれでも助けるだけなのね」

(2006年 西尾維新化物語 上』 講談社 pp. 226-7.)

 誰にでも優しい彼らは、逆説的であるが、隣にいる一人の好意にさえ応えられない、時にひどく冷たい人間である。

 

 秒速5センチメートルの「コスモナウト」は澄田花苗の視点から、そんな彼らの非情を巧く捉えている。ここでの「優しい男子」というのは無論、一連の主人公であるところの遠野貴樹である。

 コスモナウトにおける貴樹は、東京からコスモナウトの舞台である鹿児島に転校してきた中学生であった。鹿児島で生まれ育ったであろう花苗は、ほかの同級生とは明らかに異なる大人気な雰囲気に魅了され、その日のうちに好きになったという。貴樹の立ち振る舞いはコスモナウトでとおして穏やかであり、花苗に対しても紳士的に、つねに優しく接していた。花苗は貴樹と言葉を交わすたびに、姿を見るたびの胸に思いを募らせていく。縹渺とした自分の将来への不安と、溢れんばかりの彼への思いとで必死に悩み、足掻いている彼女の懸命な姿はとても健気で、見ているこちらまでがんばれーと拳を握ってしまう。

 しかし、この恋する乙女の思いが報われることはない。なぜなら残酷な彼らは、優しいから優しいのではなく、だれも選べないゆえに、結果的に止むを得ず、だれにも優しいだけなのだからだ。

 ひとりに好意を向けられない彼らは隣の女性も愛することはできない。

 貴樹は ”非情に” 優しい男子なのである。

 明里と心を通わせてから、桜の木の下でその唇に触れてから、遠野貴樹の心は ”明里の幻" に囚われ、追いかけ続けている。以来、ほかの誰にも目を配ることができない。

 平たく切り捨ててしまえば新海誠の「秒速5センチメートル」とは、「淡い初恋を忘れられないまま大人になっちゃった残念男子の物語」となる。まったく間違っていないし、言い直してみれば実にありふれた、滑稽な話だ。しかしうっかりこの作品に魅せられてしまったので、そう安直にまとめずに、もうちょっと語りたい。

 

 遠野貴樹にとって、篠原明里は「世界の秘密」である。

 新海監督はこの言い回しが好きなのか、「言の葉の庭」でも孝雄の独白でも重要な役割を担わせている。世界の秘密、それは儚くて、魅惑的で、神聖である。

 遠野貴樹は「世界の秘密」に恋をした。貴樹が明里に寄せる思いは、世間一般いわれるところの「恋」なのだが、すくなくとも彼本人にとっては別のもの。「恋」などという陳腐な言葉よりもさらに大きな存在なのだろう。彼にとって "明里" は神聖な存在となってしまった。時間の経過が "明里" を神聖な存在にしてしまった。神聖なる存在とは、すなわち手の届かないということである。鮮烈に脳裏に焼き付いた「過去」に、彼は触れることすらできない。彼にできることは、幻影を胸に抱き続け、縋ることのみなのだ。

 純粋な信仰心がときに崇高であるように、叶わなかった恋の思い出を追いかける姿も不思議と強く心を打つ。新海誠の、「秒速5センチメートル」の魅力も、そのようなところにあるのではないかと思う。

 

 ただ、一方で言っておかなければならない。貴樹はグズでどうしようもない誑し、人の心を踏みにじるダメ男だ。

 寝ても覚めても明里のことしか考えられなくなってしまった貴樹は、取り敢えず周囲に優しくしているだけ、もっといえば、周囲に感情のエネルギーを振り分けられないだけであり、花苗もそんな彼の、いつもどこか遠くを見ているような様子から自分のことなぞ「見ていない」と悟り、告白の言葉を胸に呑み込んでしまった。第三部の「秒速5センチメートル」で出てきた彼女も彼からは当り障りのない、却って無いほうが幸せだったであろうほどの中途半端な優しさしか恵んで貰えなかったし、おそらくこの誑しは大学でも近くにいた女子を適当に優しくしてはその純真な想いを踏みにじってきたのであろうと私は信じて疑わない。

 たとえ被害者面をしていようが、彼はいつだって傷つける側だったのである。

 「秒速5センチメートル」という作品を見る者の心は、新海誠の魔術によって美しく描かれた "過去" に共鳴し、そのあまりの遠さを突き付けられて絶望させられ、苦しむ貴樹の心情に自らを重ね合わせる。第三部である「秒速5センチメートル」で "One more time, one more chance" を聞くころには、その振る舞いが如何にむなしく、どれだけの時と他者を蔑ろにしてきたのか、喉元に突き付けられる。

 このような作品で心が抉られないはずがない。衝撃的であり、私が特に好きな作品であり、怪作である。(以上)

 

と、以上が発掘したテキストファイルの「前半部」である。長ぇな。

 ここから "余談" に進むのであるが、いま読んで面白いと思うのは、この余談のほうだ。

 

 勢いでブログ立ち上げて、そのまま一気に記事書いてるけど眠いから限界。明日以降、その「余談」の話をブログ向けにまとめたい。

 

追記。書いたよ!!

 

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